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20年目の…

一年半以上、noteをほったらかしにしていた。もはや、その存在感すら薄れつつあった。
ここに書いていないあいだ、何も書いていなかったわけではない。むしろ、書いていた。博士論文を書いていた。昨年の5月末に書き始め(それまでにも、書く準備が要る)、本論の草稿を書き上げて主指導の先生に送付したのが12月28日。世に言う、仕事納めの日の夕方にメールで送付した。
まったく、迷惑な院生である。こちらは「仕事納め宣言」をして送ったので
一旦、そこで手が離れる。しかし、送られてきた側は、そこから読まなければならないのだ。word 一枚 1,600字設定という規定にしたがい、本論で八十五枚。まだ、その時点では序論と終章は未執筆だったが、ざっと 136,000字。
それをお正月休みのあいだに読むのである。おそらく、三が日を除いても十日ほどしかなかったはずである。1月10日には、草稿のコメントが返ってきたのだから。とても仕事の早い先生である。
そこから、加筆修正と未執筆部分を書いたのだが、ドツボに嵌り行き詰ったのが2月上旬。どうにもならず、先生に状況を説明し助けを求めた。
「時間を下さい」と仰ったのに、二日後には新たな原稿案が届いたのだ。
あれには、驚愕するしかなかった。わざわざ、先生自ら、七枚ほど書いて下さったのである。
そんなこんなを経て、締め切りよりも三日早く提出したのが、4月22日。
(おかげで、論文を出さずに満期退学になることは免れ、現在、論文の審査中である)



ここまでは、前書きのようなものである。もう一度、noteへの執筆を再開するならば、今日しかなかった。



2004年6月14日。

忘れようにも、忘れられない日である。あれから、ちょうど、今日で20年が経つ。

20年が過ぎても、最も大切な日であり、同時に過ぎていく年を重ねるほど、後悔とも懺悔ともつかぬ(両方が複雑に絡み合った)思いが膨らんでゆく。
あの時は、若すぎたのだ。何も出来ない自分が無力だった。
いや、20年経った今でも、何も出来ないことに変わりはない。
だが、返す言葉は今なら違う。それだけは、違う。


あの日にしか聞いていない話。何を求めて、私に話して下さったのか。
なぜ、話す相手が私だったのか。その相手は、私で良かったのか。

何も、分からない。

あの日以外に、再びその話をして、傷つけることが怖かったから。今でも怖い。
何も出来ない20年前の私でも、相手が傷つくことは容易に分かった。だから、あの日しかなかったのだ。しかし、そうであるがゆえに、あの日何も出来なかった自分が悔やまれる。もう少し、ほんの少しでもと思う気持ちは、今でも募る。

20年前の私は、明らかにその話を受け止めるほど長く、生きていなかった。でも、その私にだからこそ、話したいと思って下さったのではないか。今ならば、意味がないかもしれない。だからこそ、あの日にもっと何か言うべきだっただろうし、言いたかった。でも、言葉を持っていなかった。




まっすぐで、それゆえ脆い、その部分は、私が触れば壊れる。取り返しのつかないほどに壊してしまう。そう直観した。おそらく、その部分は、今も変わっていないだろう。その脆さを愛してしまったのだろう。20年前に。
そして、そのまま20年が過ぎた。

あの日、後悔と無力感と愛が生じた。
最愛の相手に対する過去への懺悔は、減じることを知らない。
このまま、一生続くだろう。愛しているのだから。

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