「先生も大変なんです(江澤隆輔著)」を読んで②

前回の続き。

1.時間意識の欠如が問題では?

2.実社会との断絶が問題では?

改めてこのことは前置きをしておく。ここで書いている内容は、学校や教師の傾向性という話だ。江澤さんの社会への提言と同じように、私の提言は、学校や教師がこのような意識を持てばより良い働き方、生き方、教え方ができるのではないかという意見だ。


危機感の欠如が問題では?

私はこの「危機感」という言葉が意外と好きだ。行動の原動力になるからだ。危機感がないと人は動かないし、そもそも何かを変えようとしない。誰しもが社会で働いていると、危機感の中で物事を進めている。危機感の度合いはどうであれ。そして一般的に、危機感の強い人は変革を好み(変革せざるを得ない)、逆に危機感が弱い人は現状維持を好む。この傾向は間違いない。本書の中で江澤さんは「学校は前年踏襲という文化が支配的」や「球技大会等の学校行事の精選が行われるという話はほとんど聞いたことがない」とさえ言っている。「職員会議の資料は昨年の日付を変えただけ」が一般的だそうだ。前年踏襲になってしまう理由は、日々の多忙の中で職員会議の資料作成の優先順位が低くならざるを得ないからだと。申し訳ないが、全くもって本末転倒だ。おそらく江澤さんにはこの問題に対する強い危機感があると思う。しかし、前年踏襲文化は全国の学校現場で蔓延しているらしい。

なぜ、前年踏襲という結果になるのか。答えは明快だ。変えようと思っていないからだ。仮に変えようと思っていても、その思いが弱い。本気ではない。本気で変えようと思えば、決して前年踏襲にはならない。つまり、危機感がない。危機感の弱さが職員室には蔓延している。だから、学校行事は変わってこなかったし、社会との断絶が起きている。前年踏襲の連続で何十年も学校現場は現状維持がなされている。結果、世間との時間感覚もずれてくる。傍から見ると、学校は裸の王様状態だ。厄介なのことに本人たち(教師たち)はそのことに気付いてさえいない。

では、教師の意識構造に染み込んでしまった「危機感の欠如」はどこから来るのだろうか。私は、現行の教育制度がそのような意識構造を形成させていると感じる。学校はお金や利益といった経済活動から最も遠い存在にある。教師は経済活動との無縁さから、社会との距離感を開けすぎている。経済活動が学校現場にはないため、また教育というたしかな数値で測れる指標がないため、教師自身の評価も曖昧な定性指標になってしまう。今でこそ保護者や地域の外部評価委員会からの評価はあるものの、教師個人の評価はあってないようなものだ。よほどの問題行動を起こさない限り、それなりの評価をされる。この曖昧な評価基準は給与やボーナスへの反映もほとんどない。いわゆる年功序列だ。教師個人の評価制度が曖昧な点が、危機感欠如の一つ目の原因だ。

二つ目の原因は、公立の学校制度にある。地域に住んでいる子どもたちが適齢期になると学校へ通うという制度だ。どんなに少子化で子どもの人数が減ろうが、どんなに田舎の地域に住んでいようが、公立の学校は基本的に生徒募集の活動をしなし。教師は待っていれば児童・生徒が集まる。私学の学校は生徒募集が経営の根幹をなすため死に物狂いで営業活動を行っている。それ故、社会との接点の中で自身の学校の魅力向上に努めている。しかし、公立の学校は倒産という現象が起きない。生徒が来ようと来まいと、言ってしまえばどちらでもいいのだ。生徒募集に全くの無頓着だ。待っていれば学校ん生徒が集まる。学校は経済活動とは対極にある。だから社会との断絶が起こってしまう。

三つ目の原因は、教師の異動だ。(これも公立学校に限った話であるが。)公立の場合、3~6年程度で異動になる。今では10年間同じ学校に勤めている教師もかなり少なくなっている。また、管理職に至っては1~3年が異動スパンだ。公立の学校においては、学校の独自色を出すことは難しい。何か新しいことを始めるにしても、各方面にお伺いを立てる必要がある。そんながんじがらめの中、管理職は自身の任期である1~3年の中で、チャレンジングなことをしようとはなかなか思わないものだ。問題を起こさぬよう、事勿れ主義の教師、特に管理職が多い気がする。この問題の一因は教師の異動スパンの短さだと考える。

以上の理由、さらに学校という公共サービスとしての性質から、学校は変化ができない存在になってしまってしまった。無変化のまま長い年月が経ったため、職員室は独特の生ぬるさある。変化を恐れる空気が充満しているのかもしれない。全ての元凶は、変わらなければ淘汰されるという「危機感の欠如」に起因している。

つづく。