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”蛍”から考える学びの体系化

初夏の気持いい夜風に当たりながら、今日は蛍を見に行った。家から歩いて10分ほどのところに、300~400匹の蛍を見ることができる小さな森(山)がある。今日はストロベリームーンらしい。アメリカ圏では6月はいちごの収穫期。丁度その頃に満月が赤くなることからそう呼ばれているらしい。たしかに、少し赤みがかっているかな。

蛍はたくさん見えた。あちらこちらでピカピカ光っている。実に幻想的だ。蛍が放つ光は蛍光黄色なので、何か力強さを感じる。ついつい見入ってしまう。必死に光を放とうとしている姿がまた惹きつけられる。

ふと、蛍を見ながら様々な疑問が生まれてきた。「なんで蛍って光るの?」、「ゲンジホタルとヘイケホタル?」、「どんなところに住んでいるの?」などなど。蛍はもしかしたら学びの宝庫かも知れないと考えながら、子どもにとっての学びの本質について考えてみた。

学びの根源は「疑問」に思うことから始まる。「これが分からない、なんでなんだろう、不思議、何これ?、これをもっと知りたい・・・」という類の純粋な疑問だ。

分からないという状態をひとつの島に例える。分からない島は孤島だ。何もない無人島。なにやら目を凝らすと遠くに賑やかな島が見える。そう、それがこの疑問を解決した時に現れる活気のある島である。遠くに見える島に行けば、自分が抱いていた疑問や不思議を解決してくれる。向こうの島へ行けば頭がスッキリとした状態になれる。つまり、疑問が解けた状態だ。

向こうの賑やかな島に行くためには、船で渡る以外の方法はない。しかし、この無人島には何も材料がない。船を作ることはできない。どうしようもない。さぁどうする!?このプロセスが、質問だ。試行錯誤をしながら与えられた材料で船を作り上げる作業こそが、質問力を鍛えるということだ。

そして、船を作り、向こうに見える島へ渡るための努力、すなわち質問力こそがこの場合、最も重要なプロセスになる。学びの原点である。

「船を作る=質問を作る」ためには、まず材料を揃えなければならない。質問の材料とは、まずは360°見渡してみるといい。なにが見えるだろうか。見えたもの、聞こえたもの、感じたもの、臭ったもの、舐めてみたもの、肌触りが出発点だ。興味を持ち、好奇心を持ち、五感で感じ、自分の感性を大切にして欲しい。すごい!という気持ちを大切に。この過程で湧いて浮かび上がってきたものが質問そのものだ。

では、質問が出始めたら、その質問はどのようなテーマの質問なのか整理をする。例えば、蛍を例にすると、「蛍はなぜ光るのか?」という質問ならば、蛍の生態についての質問になる。「ゲンジホタルとヘイケホタルとは?」という質問ならば、もしかしたら歴史と関連があるのかもしれないと考えることだ。つまり質問のテーマを整理するとは、抽象化するということになる。課題を明確にするというプロセスだ。課題を浮かび上がらせる。

質問に対する課題が明確になった後、次に行うのは、予想をすることだ。かっこよく言うと仮説を立てることだ。蛍のお尻には蛍光灯が仕込まれているのかな・・・、などなどの仮説を立てる。仮説力だ。

そして、立てた仮説が正しいのかどうか自分で調べる。調べることはこの時代容易いだろう。ネットがあればすぐに答えは出てくる。(ネットにすぐ接続させるかどうかは別の話なのでまた後日論じてみたい。)調べた結果、自分の仮説が正しかったかどうか、検証してみる。検証力だ。

検証している最中に、次の疑問が浮かび上がるかもしれない。疑問が浮かび上がってきたら、また予想をし仮説を立てる。そしてまた調べて検証する。これを何度か繰り返すと、それなりの知識量になる。検証の質を上げれば、自身の血となり、肉となる経験値になるかもしれない。血肉になった知識は人を強くする。応用が利く経験値になる。ただ教科書で学んだ生物の知識や歴史の単語を覚えるという知識とは全く別の次元の「生きた学び」になる。

では、検証の質を上げるとは何か。純粋な疑問から生まれた質問を、様々な手段を使って紐解いていく。その過程でだんだん自分が知りたかったことが形になる。ぼんやりしていものが、徐々に見えてくるイメージだ。明確になった疑問が生きた学びになる。このプロセスを経たことが、生きた学びになる。(その前に、前述した様々な手段の具体的な中身が大切なのだが…それも後日論じる)

この「生きた学び」に昇華するプロセスを経ることが、この混沌としたなにが正解なのか定かではないアフターコロナの世の中を生きていく上での道しるべとなる力になると考える。子どもにとっては「子どものためのビジネス思考」といったところか。そして、このプロセスを経ることで知的好奇心が満たされた子どもは、さらに次のステップへ映って行く。これこそが、学びのワクワクを刺激するということだ。

このプロセスを体系的に子どもに落とし込む取り組みが必要であると感じる。