”平等”と”公平”

では、平等と公平の定義を見ていく。

平等・・・偏りや差別がなく、みな等しいこと。

公平・・・全てのものを同じように扱うこと。判断や処理などが偏っていないこと。  ※広辞苑より

一見、意味上は両者に大きな違いはないように思える。しかし、生活の場面を想定した時に両者には大きな違いが表れる。

例えば、同じ学年、同じクラスの友達に、プロ注目株の棋士がいるとする。その友達と遊びで将棋をする際は、飛車角抜きのハンデを与えてもらわないと勝てるわけがない。この事例で言うと、”平等”ではないが、”公平”ではある。プロ棋士顔負けの実力を有しているというバックグラウンドを知っていれば、「不平等だ」、「ずるい」などは言わない。このような事例は日常生活の中でよく目にする配慮だ。兄弟姉妹により食べる量が異なる、走ることが得意な人、野球が上手い人がいれば、その一方で、勉強が苦手な人もいれば、人と接することが下手な人もいる。スタート地点が平等ではない中で、公平性を担保する配慮が何かしらなされている。社会生活の中では、超大金持ちは累進課税により多くの税金を支払う。一方、低所得者は生活保護や様々な支援を受けている。

つまり、社会全体は、一番最初の出発点(生まれた時点)は平等ではあるかもしれないが、現在の資本主義システムに揉まれる中で、次第に不平等になっていく。その中で、公平性を担保するための社会救済システムが機能してくるという社会設計になっている。そして、現代社会を生きていく上で、この不平等性が発生する社会構造は避けることが絶対にできないのだ。

したがって、平等ではない人間特性、社会特性の中で、公平性を保つための施策を打つことだけが唯一の解決策になる。

ここまで、”平等”と”公平”を回りくどく紐解いてきたが、本題の教育に場面を移そう。教育おいて、様々な場面で頻繁に平等がうたわれる。生徒の平等性に配慮して…、家庭同士の公平性が…、といった会話がよく聞かれる。これは、平等と公平をごっちゃにしているいい例だ。不平等は公平性でカバーするしか手がない。その現実を避けて通ることはできない。家庭の中でどうしても経済的理由により修学旅行に参加することができない生徒はいる。またオンライン環境が整わない家庭もある。しかし、そのハンデをカバーする支援策がある程度は公平に用意されている。公教育はそのような全員が等しく教育を受けられるシステムになっている。教育基本法にも教育の機会均等は明記されている。しかし、現実社会では、機会均等は保証されるものの、様々な要素の不平等が存在している。そのことを認識しなければならない。平等と公平の取り違いから、物事が前に進まない事案が多いのが教育現場である。最もいけない組織マネジメントは、平等、公平を盾に物事を前に進めないことだ。

コロナ禍で炙り出された様々な教育問題。これらの問題に対して、元来社会は不平等であるという観点に立ち、最大公約数に資する策を取らざるを得ない。不平等という前提に立った時に、どうしても溢れる人が一定数以上は出てきてしまう。そして、溢れた人たちを救うための施策を施すことが公平性の観点から必ず必要になる。

例えば、オンライン教育の是非。是非についてはまた後日考察をしていきたいが、現状を見ると進めざるを得ない現実がある。今一番問題だと思うのは、家庭の通信環境による不平等を盾にして、全く公教育が機能していないことだ。もちろん不平等な家庭ごとの経済状況の中では起こり得る自体だ。しかし、通信環境が整えられない家庭には別の策でカバーするような公平策を取ればいいだけである。該当家庭は電話でのやり取りを密に行ったり、資料のポスティングや郵送対応などだ。もう少し行政がリーダーシップを発揮してくれるならば、タブレットを支給したり、WIFIルーターを貸出したり。一番の問題は、不平等を目の当たりにして、思考停止になり、前進を止めてしまうことだ。

このように考えると、コロナ禍で炙り出された諸問題にも解決の糸口が見えてくるような気がする。不平等は認めざるを得ない現実問題である。その事実を踏まえて、溢れてしまった子どもたちには救済策を施す。大多数の利益を追求するために、より良い教育像を追い求める。教育者ならばその努力を怠ってはいけない。コロナ危機を乗り越えるためには、教育界も一丸となって前進を進めることが必要だ。そのための歩みを平等、公平という観点から再考してみると、なにか解決の糸口が見つかるかも知れない。