教育における”平等”と”公平”

コロナ後の学校教育がどうなるのか、という議論が世間を賑わせている。

・オンライン教育の是非

・家庭環境や経済格差が教育に及ぼす影響

・緊急事態宣言解除後の登校や学級運営、履修の仕方

・教育の地域格差

・9月入学の是非

などが最近のトピックであろう。最近は様々な議論が活発に行われている。今まで当たり前のように考えられていた教育の健全性が、コロナ危機をきっかけに一気に崩壊したような感じだ。外見は健全に見えて、実は既に教育全般に制度疲弊が起きていたのかもしれない。経済や科学技術が世界中で急速に発達する中で、日本の教育制度だけが150年近く遅れていると言われて久しい。その遅れがコロナ危機をきっかけに顕在化したと見るのが正常な思考だろう。

さて、コロナ危機で炙り出された教育事象を考えた時に、私の中で”平等”という言葉が様々な場面で足かせになっていると直感的に感じた。子ども同士の平等を考えた時に、均等な機会提供はしなければならない。家庭同士の平等を考えた時に、経済格差に配慮しなければならない。地域間の教育格差を考えた時に、あるエリアだけ学校をいち早く再開して、もしも学校内にコロナ罹患者が出たら叩かれるだろう、と。”平等”な機会均等をうたうあまり、目線がどちらかと言うと学力や経済が下の層に合わせざるを得ず、上位層はおろか、大多数の中間層さえもあまり考慮に入れられていない思考回路になっている。このことは教師による学級運営を見てみるとよく分かる。一部の声の大きい児童・生徒がどうしても教師の目に付き、クラス運営に大きな影響を与える。大多数の中間層の(比較的大人しい)児童・生徒は基本的に無視だ。中間層の子どもは言えばやると思っているからだ。

結果的に、組織運営の際に、下の層に合わせることが建前上の”平等”と誤認し、組織的停滞をする。おそらくこの心理的建前上の平等の前に、150年間学校改革が進まなかった理由の本質があると考える。

さて、ここで述べてきた建前上の平等は”公平”なのだろうか。教育を語る上で”平等性”と”公平性”に対する考え方は整理して考えないと組織停滞を招く。コロナで炙り出された教育の諸問題は、平等と公平という観点で考えるとすっきり整理される。そして、このコロナ危機後の教育を考える上でも、”平等”と”公平”を区別し、組織を前に進める意識改革が必要であると考える。

次回からは、平等と公平を定義し直し、コロナ後の教育を展望していきたい。


つづく。