アフターコロナ時代の教育考察①

前回、フィンランド教育の特徴をまとめてみた。

フィンランド固有の社会背景、国民性、文化などに紐づいていることも多々あるが、かなり合理的で実践的な教育である。羨ましいと感じた。

日本の教育はどうだろう。どこまで子どもたちの成長に結びついているのだろうか。今後、コロナ後の教育の在り方は大きく変わるであろう。変わらなければならないことがたくさんある。今後の展望を考察してみた。

考察① 個人で学べる環境がより整備される時代

学習塾や教育団体、企業、有志がこぞってオンライン教育ツールを提供している。それもかなりクオリティが高い。多くの時間と知恵を費やして、それぞれが渾身の出来栄えとなっている印象である。これだけのツールが揃っていれば、子どもたちは基本的には自ら学ぶことができるし、学ばなければいけない。

私の教育に対する考え方は、自ら気付き、自ら学ぶである。先生や大人から学習を授かるものではないと考えている。自ら成果を取りに行くことが必要だ。このように考えているため、今この環境があれば、子どもは自ら学びに行って欲しいと思う。サポート体制は様々なツールが用意されている。これらのツールを使いこなせば、子どもたちの学びの場は無限に広がる。やる気のある子どもがより伸びる環境の整備が整いつつある。

ただし、そのツールの使い方や活用方法、なぜ活用する必要があるのか、そもそもなぜ今学ばないといけないのか、それらを教えてあげるのは大人の役目だ。それが教師の役目だと思う。子どもにとってのサポート役は必ず必要である。道標のような役割。いまのようなコロナ禍の孤独な状況であれば、尚更必要だ。

考察② 学校の役割・教師の役割の明確化

教師の役割は、学びの道標であると考える。そうであれば、子どもたちになぜ学びが必要で、なぜ勉強が必要なのかを腹落ちさせなければならない。そして、将来の展望を見せてあげなければならない。現在の学校では、その責任を果たせているだろうか。

コロナ禍で様々な学びのツールが整備されつつある。学びの中身に関しては、そのツールで事足りることだろう。志の高い子どもたちはいつでも学ぶことができる。しかもオンラインになることで、一流の先生から、何回も同じ授業を受けることができる。申し分ない学びの場だ。

では、学校は、教師は、その学びへ導き、生徒の水先案内人をするようなイメージではないだろうか。子どもと学びツールの間に入り、人生の先輩として方向性を示す役割が、より求められる時代になると考える。

考察③ 経済格差について

家庭の経済格差の問題が、このコロナ禍の中で顕在化し始めてきた。通信環境の有無により、学校からの伝達や教育そのものに差が生じてしまうからだ。先ほど考察①で述べたオンライン教育の大きな可能性は、通信環境が整っているという前提での話であったので、当然通信環境がなければ難しいという話になる。ましてや緊急事態宣言が発出されて近くの本屋は閉まっている。

前提条件として、親の経済状況により子どもたちの教育環境に差が出てしまっては議論の俎上に乗っていないことになる。学校教育の前提は、教育は平等に施されるものであることだ。最低限の均質な保証は必ず必要である。

5月7日以降も緊急事態宣言が延長されれば、学校の再開も6月になりかねない。もしも通信環境が整っていない家庭があれば、現状であれば個別対応をせざるを得ないのではないか。その該当家庭のみは学校からプリントを郵送したり、FAXでの対応をしたりして、配慮をしなければならないだろう。

ゆくゆくは近い将来、通信機器での学習が主流になるであろうことを考えると、タブレット端末やパソコン1人1台を早急に行政機関が実現することを願う。

つづく