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否定

モノクロのイメージが好きだ。きっと1975の5枚目のアルバムがきっかけなのだと思う。2022年サマソニでの彼らのステージは圧巻だったし、何よりボーカルの立ち姿に惚れた。白黒であることによる「曖昧さ」みたいなものがこの感情の本質なんだと思う。対象が結局何色なのかこっちの加減で決まるとことか。想像次第で何色にもなるとことか。グラデーションを十人十色で楽しめるとことか。最大限の可能性を加味しつつ、それでいて生物が視認できる最小の形、その答えがモノクローム。

正直な話、なんでもかんでもモノクロにしたい。好きも嫌いも、はいもいいえも、正義も悪もぜーんぶモノクロ。後半に行くにつれ社会性が待ったをかけてくるし、それは正しい。赤信号は止まれであるべき。それは全くの同意。でも、好き嫌いくらいなら、モノクロでもいい気がする。

文章を書くのが辛い。自身の内面に迫り、どこか形の掴みきれないものに決まった色をつけてしまう気がするから。曖昧さはそのまま文章に書き起こせず、文字を通して色づき断定される。曖昧を表現するために曖昧を捨てる。「思考」という人間のプロセスを通過させる時点で本来の曖昧さは消え失せる。もう前意識みたいな話になってくる。到底実現不可能な話。

誰かと待ち合わせをしたとする。その集合時間に曖昧さは適していない。まあ気心知れた仲なら問題はないだろうが、なんかでっけえ取引とかあとはなんだフライトが11時とか、第三者の質量なりヒエラルキーなり、還元できる数値がでかいほど曖昧なわけにはいかない。信号機の話と一緒。

曖昧大好きみたいな話をした一方、断定ありきのグラデーションみたいな言い分もめちゃくちゃわかる。馴れ合いでコンテンツが死ぬことなんてザラだろうし。ゲームはルールがあるから面白いなんて設楽統が説いていたけど全くその通り。

きっと筆者の言う曖昧さが通用するのってたかが好き嫌いの範疇なんだと思う。それぐらいの曖昧さは許容してほしいと思いつつ、自分はただ逃げたいだけなのでは?と思わされたりする。これは0!0だ!っつってから責任とんのが怖い。ハタから見たらどう見ても100だった時、どうしても100だと主張したい誰かがいた時。そこで0だと断定してしまうこと、それは相手を否定してしまうことと等号で結ばれる。結ぶつもりはなくても事実として結果として。私は0だと思うし、それと同時にあなたの100も尊重されて然るべきだと思う。白でもあり、黒でもありたい。ただそれは不可能なので、いっそのことグレーにして折り合いをつけようとする。きっとそれが及第点、最善の形なんだろうなあ。ほら、また0でも100でもないこと言ってる。

善と悪、光と影みたいな二項対立で世界は満ちている。そのほとんどが正しいしそうであるべき。でも、場合によっては、そうじゃなくてもいいんじゃない?
これが私の0だ。

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