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手探りでやってること(短歌)

短歌をはじめて30年、すぐに結社に入ったので、実のところ、雑誌や新聞への投稿も、短歌大会への投稿もしたことないし、カルチャーや講座にも(通信を含めて)通ったことがない。
唯一、学生時代の創作の講義は半年間受けたけれど、なにをしていたかほとんど記憶がない(先生ごめんなさい)。
そんな私でも30年もやってくるとカルチャーとか短歌大会の講師や選者が回ってくる。見本となる経験がない中で手探りでやってるから、当然自信はぜんぜんない。

カルチャーのうちひとつは、コロナ前からだからもう5年になる。
友だちからの紹介で、総武線で三鷹から幕張まで1時間半かけてトコトコと通っている。
60代から80代の、だいたい親くらいの年齢のひとたち。その年齢になって一から新しいことを始めようという方々だから、多趣味で、知的で、好奇心旺盛、逆に私が教えられることのほうが多い素敵なひとたちだ。
一時期は10人くらいいたけれど、コロナ前後にお子さんたちから外出を禁じられたり、その間に足腰が弱って施設に入ったりして、今は対面で5人、詠草参加が2人の7人14首を読んでいる。
近刊歌集を一冊紹介している。
やはり、世代の近い作者の歌集に共感することが多いようだけど、若い作者や写実系ではない作者の歌集も腑に落ちない顔をしながらも図書館などで借りて一冊で読んだりしているみたい。そんなの、うまくなるに決まってるよね。

昨年末から、もうひとつ受け持っている。
前の講師が高齢のため、代わりを紹介してほしいと某所に連絡があって、隣町住まいの私が行くことになった。
これは慰めの一種なのかもしれないけど、引継ぎの講座は、どうしても前の講師と比較されるから難しいと言われる。講師が変わったら生徒は半分残ればいいよ、というくらい。

年齢層は70代から90代。10人だけど、毎回1~3人は欠席するので14首~18首くらいを読む。幕張と同じように知的好奇心がすごく高くて、都内の西側ということもあって、ややリベラル寄りの雰囲気というのかな、この年代の女性にして社会や時事に対しての意見を言う事に慣れている。口を挟めないくらい滔々と語る人もいて、時間のコントロールがちょっと難しい。
ここでも、一冊歌集を紹介させてもらっている。
公民館の規定で時間きっかりに退出なので、最後が駆け足になってしまうけれど、一年間にあたらしい歌集を12冊(30首選だけど)読むのって結構いいんじゃないかと思っている(同じ形式でやっている人も多いと思う)。
11月、12月、1月と最後は駆け足ながらいいかんじにスタートできたと思っていたところ、2月の詠草の送付状に(取りまとめ役はただ一人の男性なんだけど、その人は90歳なのでメールなどではなく郵送で詠草が送られてくる)「歌集の紹介は勉強になるのだろうけど時間配分もあるので歌集の紹介はおいおいとして当面はなしで」とあった。

まあ、凹んだよね。
良かれと思ってやったことだけど、余計なことなのかなあ、とか、
いい歌人の作品を読まないとうまくならないのでは? とか、
反応よしと思ってたのは私だけだったのかしら、とか、
前の講師の方がいいのだろうか、やっぱり私では力不足なのだろうか、とか、さ。
その日は終了後新年会を兼ねて会食の予定となっていたのだけど、「行きたくねえええええ」ってなってた。

それがさ、講座中はやっぱりいい雰囲気だし、今月は見学者もいて「入られるといいわね(*'ω'*)」って感じだったし、なにより「今月から歌会に時間を多くということで歌集の紹介はなしと聞きまして」と言ったらなんか「え」って感じだったんだよね。
さらに、新年会で話を聞くと「前の先生は添削もしないし、戦争体験の話を毎回繰り返すし、急に怒り出すこともあって、新しい先生に来てもらえてよかったわー」と皆さん言って下さるのだった。
なんだ・・・。
私が勝手に身構えていただけだった・・・。
歌集紹介も「(先生が大変だから)ゆっくりでいいですよ」というおじいちゃんからの提案だったんだ・・・。
好意的じゃん・・・。私が勝手に身構えてただけだった…(2回目)。

ほんと、人見知りはよくない! 全て考えすぎだった!
それにしても、私はほんとうに人に恵まれる。短歌の世界ではとくにそうだ。ほんとに短歌の神様に愛されている、わたし。。。
今年もがんばろっと。