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死生観を語るには足りないですが、生と死の在り方を見つめることについて考えてみました

こんにちは。ホワイトボックス(株)コンサルティング部の阿部です。先日、75歳以上の後期高齢者の人たちが病院へかかった時の自己負担割合が、年収200万円を目安に原則2割に引き上げるという方向が決まりました。実行時期は、2022年度の半ば、あるいは年度末の調整で議論が進んでいるようですが、いずれにしてもこれまで後期高齢者の自己負担割合の議論が先送りにされてきたなかで、一定の方針が定められたのは一つの重要な成果だと認識しています。


少子高齢化の裏の顔=多死社会

国内で高齢化が進んでいるというのは多くの方がご承知の通りです。一方で、高齢化が進んでいるということは、これから多くの方が亡くなっていくことを示唆しています。多死社会の到来です。

「終活」という言葉が流行しましたが、このコロナ禍のなかですっかり聞かなくなってしまいました。ある意味、こうした自虐的なことは、平和な時だからこそブームになり得るのであり、一歩間違えば、誰もがその対象になり得る現状においては、一転して”不謹慎”となってしまうのかもしれません。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。

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正面から今を見据えるべき

医療の現場、あるいは介護の現場では、その人の人生の最後に携わる場面が多々あります。今後の高齢化社会の到来に備え、医療や介護の現場では、「看取りに関する指針」をつくっておくことはとても大事な取組みになっています。

一方、私たちはどうでしょうか。日本では、死や性を語ることはタブー視されることが多いこともあって、多くの方がこうしたことから目を逸らしているのが現状ではないでしょうか。

性の問題については個人差もあり、ここで語るテーマではありませんが、死は女性にも男性にも、お金持ちにも貧困の方にも、誰にも必ず訪れる真理の一つだと理解しています。その死ということと向き合い、人生の最後の段階をどのように迎えるか、ということはもっと公に議論されても良いことなのではないかと思っています。

昨年、「人生会議」をテーマに人気芸人さんを起用したポスターが、多くの批判を受けて発送が中止されました。鼻に酸素を送るカニューレという装置をつけた状態で語り掛けるその姿が”不謹慎”というそしりを受けての撤退だったわけですが、表現の是非はともかく、訴えている内容はとても大切なことだったと認識しています。


アドバンスケアプランニング

アドバンスケアプランニング(Advance Care Planning : ACP)という言葉があります。これは患者さん本人や家族、また医療者が介護者などが、患者さんの現在の病気に関することだけでなく、病気が進行し意思決定能力が低下した場合に備えて、あらかじめ終末期の医療や介護の方向性を決めておくことや、本人に代わって意思決定をする人を決めておくプロセスのことを言うのですが、コロナ禍のいま、誰もがいつ罹患者になるかも分からない状況にあるなかで、こうした考え方やこれを実行しておくことはとても大切なことだと思うのです。

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付録

私が編集を担当しているメールマガジン「☆キラリと光る☆ 病院マネジメントのヒント」で、以前このアドバンスケアプランニングや看取りに関する指針について、医療側からの視点で取り上げたことがありました。

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↓ 当時の資料はコチラ


人は若いとき、生と死ということについて考える時間が多い一方で、日々の生活に追われるようになってくると、こうした問題を脇に追いやりがちになってしまうように思います。

しかしこの時世では、いつ自分や家族が罹患者になるかも分からず、また感染症の場合は治療中に満足に面会することすらままならない現実が、私たちのすぐ隣にあります。

来たる新年をこれまでのように家族で迎えることは難しいかもしれませんが、コロナ後、災難が去ったと安堵するだけでなく、コロナ禍が提起していった課題をしっかりと咀嚼し対応していくことが大切なんだと考えています。

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