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きっと誰にもある、今の、そして未来の原点

きっと誰もが、今の自分の原点といえるものがあると思います。私の場合、それは10代の頃、流行り病のように憑りつかれた格闘技でした。

▽夢だった世界と現実の交錯

↑ この動画を初めて知ったのは2015年頃のこと。いまもイギリスで板前をしている友人から、「お前のYou Tubeみて後輩が爆笑してるんだけど、ちょっと話してやってくれよ」。

そんな内容の電話だったと記憶していますが、自分のまったく知らないところで(といっても誰も私のことなど知るはずもありませんが…)、30年近く前の様子がYou Tubeに流れているのをみて面映い思いをしたことを憶えています。


▽大学生ではありませんが…

上にあげた動画について調べてみると、同じようなものがいくつかupされていました。この映像は1992年の上旬にTBSの深夜枠で放送されたものなので、きっと誰かが録画していたものなのでしょう。

ところで、この映像そのものは1991年の9月に撮影されたものです。これはまだ当時プロ化して興行をはじめたばかりの、このときはまだ「シューティング」と呼ばれていた総合格闘技の合宿風景で、叩かれているのは19歳の頃の私。

コメント欄をみてみたら、「素人にも容赦ない」とか「大学生がしごかれている」とかありましたが、本気でプロの選手を目指していた私にとってはどちらのコメントも間違い。この合宿で目立てばデビュー戦が近づくという期待と打算があったのを今でもよく憶えています。

▽超ざっくりと当時のことを

少しだけ、ここに至るまでのことを書かせてもらいたいと思います。1980年代後半、まだ流行りはじめたばかりの総合格闘技の世界に憧れていた私は、高校を卒業してすぐ、当時千葉県成田市にあったシューティングの道場に入りました。

この合宿は入門してから5ヵ月ほどが経過したときに組まれたもので、合宿前、私を指導してくれていた当時トップ選手だったS選手から「この合宿で目立てばデビュー戦が近づくから目立て」と言われていました。

プロの世界で試合をするのは中学生の時からの夢でした。中学を卒業して親元を離れ、叔父の家で居候して高校のレスリング部に入り、卒業してから夢が近づきつつあるなかで巡ってきた機会。師匠に言われるまでもなく、目立つ気満々ななか、その合宿ははじまりました。


▽いきなりの衝撃

You Tubeのシーンは合宿初日の一番最初。「誰かミット蹴ってみて」との声に反射的に挙手をしたことを憶えています。

このときは「フォームとか見てくれるのかな?」そんな軽い感じで考えていたのですが、その後は映像にある通り。ちなみにこのときの様子については、以前格闘技専門紙のライターの方からインタビューを受けた記事がネットにありますので、興味のある方はそちらをご覧ください。


▽これについては体罰でもパワハラでもない

ところで、この映像にはいくつか議論があり、今ではコンプライアンス上TVで放映することはほぼできないそうです。ライターの方のインタビュ―を受けた後、TBSの深夜番組のお笑いクイズのコーナーでほんの少しだけ映像が流れたことがありましたが、この時もTV局の方からわざわざ事前に承諾確認の電話をいただいたことを憶えています。

もちろん、私も体罰を肯定する訳ではありません。スポーツの、ましてや部活動の世界で体罰をすることは教育上良くないことは明らかです。ただ、当時はまだ昭和の時代の残り香があったことは事実ですし、ましてやこの合宿はプロを目指す選手未満の者たちの集まり。少なくとも、私自身はこの時のことで競技が嫌になったこともありませんでした。

それよりもしんどかったのは、キックの練習を裸足でするため、マットの熱と摩擦で足の裏の皮がすっかり剥けてしまったことのほうが、よほどダメージが大きかったことを憶えています。ただこれも、自分の身体がプロの練習についていくものになっていなかった結果だったと思っています。


▽拙速で稚拙だった自分を救ってくれたのは「人との出会い」

「プロってさ、やることが一杯ある。アドレナリンを自分であげていけ。自分でやる気になること。これも技術のうち」

この言葉は、いまも仕事をするうえでの私の拠り所の一つになっています。

ところで、私はこの合宿から3ヵ月後、夢だったデビュー戦をすることはできたのですが1Rレフリーストップ負け。それから1ヵ月ほどして道場を辞めてしまいました。

いま思えばあまりに拙速な考えでしたが、当時の私が出した答えは「あれだけやって負けたんだからセンスなし」という誰の意見も聞かない稚拙な判断でした。

成田から横浜の叔父のところへ再び転がり込み生活を始めたものの、なぜか当時アルバイトの面接にはことごとく落ちてしまう状況が続きました。きっと暗い顔をしていたのだと思います。

交通整理の警備員や日雇い土方の仕事を食いつなぎながら、3ヵ月以上が経ったある日、やっと私を雇ってくれたのは中華料理屋さんでした。このときの店主の方との出会いは、文字通り私を救ってくることとなりました。おかげで今の私があり、この方とのご縁は30年が経った今も幸いなことに続いています。


▽心は閉じてしまわないほうがいい

ことの大小はともかく、挫折というのはどんな人にもあると思います。このnoteで私が言いたかったこと、それは「人との出会いの大切さ」です。

これまでの人との出会いのなかで、「その最初のシーンを憶えている」という人が何人かいます。

中学3年生の時、高校入学を待てずにレスリングをはじめることにしたのですが、この時の町道場の先生で、その後総合格闘技の世界の発展を支えた木口先生(故人)。

中学の先生から行きたかった高校の受験を認めてもらえず(当時は私立高校の推薦枠に人数制限がありました)、高校に行くのを辞めようと腐りかけていたところを「うちにくるか」と声をかけていただいた、横浜高校レスリング部監督の武松先生(故人)。

レスリング部で一緒に3年間を過ごすことになった仲間。

そして、目的を見失っていた自分に生き方を教えてくれた中華料理店の店主。

こうした多くの人との出会いが、道から逸れていこうとする私の軌道修正をしてくれ、今の私が私としてここにいることができています。もし、私が心にフタをしてしまったままだったとしたら、この方たちとの出会いを経ても好転することはなかったかもしれません。

もちろん、すべての出会いに安易に心を許すということは慎まなければならないでしょう。世のなかには、嘘をつく人、ヒトを陥れようとする人が少なからずいることは事実ですから、このあたりのバランスは自らが感じていかなければなりません。


▽すべては道の途中

ここまで、このnoteを読み進んでくださっている人は、いま人生のどのあたりにいらっしゃるのでしょう。10代? 20代・30代、あるいは50・60代と、きっと様々な年代の方がいらっしゃることでしょう。

私が今回のnoteをいまこうして書いているなかで思っていること、それは、いま上手くいっていることも、あるいは上手くいっていないことも「すべては道の途中」ということ。

冒頭の動画は49歳の私(2022年1月時点)が19歳のときなので、いまから30年前のこと。正直なことを言うと、20代、30代の頃の私はプロの世界の壁に無残に跳ね返され、逃げ出した自分を恥じていました。そのため、練習生時代やデビュー戦デビの時の写真というのは1枚も残っていません。

しかしこのときの動画が時を経てYou Tubeのなかで再生され、巡りめぐって当時のことについてインタビューまで受けることにもなったわけですが、仕事を通じて知り合った方達のなかにもこの動画を見たことがある人が結構いて、「あれ、どつかれてるの阿部さんなの?」といったところから話しのツカミが弾んだりすることもしばしばあります。

今にして思えば10代や20代の初めの頃の私は、よく言えば繊細、というより弱かったのだと思います。負けた自分を見つめ直すことができず、そこから離れたところで生きていこうとしていました。

そんな弱い自分を「人との出会い」がすくい上げてくれました。おかげでいま、私は一人の会社員として、またコンサルタントとして多くの方達と仕事を共にすることができています。


▽やってやりましょう

私はこの6月で50歳を迎えます。人生100年時代が本当だとしたら、まだ半分しか来ていません。負けてしまった当初は、それこそ「人生終わった」くらいの腐り方をしかけてしまいましたが、今にして思えば負けたことよりも、そうした考え方のほうがよほど恥ずかしいということに気づかずにいました。

もしかしたら、いま強い孤独感を持っている若い人たちがいるかもしれません。どうぞ、長い目で自分の人生をみてやってください。私がいまの会社で働き始めたのは42歳のとき。それまでいろんな仕事を経験してきたことが、少なからず今の仕事で活きる場面があることを知っています。

何が奏功するかなんて、誰にも分かりません。いまこうして書いている自分も、1ヵ月後はどうなっているか分かりません。でも、少なくとも今の僕は何があっても進んでいく自信だけはあります。

これまでの出会いが、そのことを教えてくれました。

もし立ち止まってしまっている人が、このnoteを読んで少しでも自分を取り戻してくれたら、元気を回復してくれたら幸いに思います。

さぁ、やってやりましょう。

2022.1.3 阿部 勇司






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