見出し画像

まつろわぬ心           ~狐と麒麟と向井理~

今は昔、京の都。
見渡すかぎり美しい花の朝露を一滴残さず集め、月夜の晩にていねいに漉した、その上澄みを掬った水で漆黒の墨を溶いて人ならざるものの姿を描いたら、向井理になる。

§ § § 

劇団新感線の『狐晴明九尾狩』をライビュ1回、東京公演で1回、そしてゲキ×シネを5回観ての感想です。
が、その前に。
そもそもなぜこんなキモい長文ポエムを詠むまでに至ったかを書き残しておきたい。
(以下しばらくはクッソ長い自分語りなのでご興味ない向きは飛ばしてください)

あなたに出逢えた このよろこびを

80年代に夢の遊民社、90年代には青年団を熱心に追いかけてきました。
いわゆる小劇場第三世代華やかなりし頃、典型的サブカル女だったわたしにとって聖地といえば駒場であり下北沢。
新感線という劇団は、あくまで「大阪のおもしろ集団」くらいな認識でした。羽野晶紀ちゃんが「浪花のキョンキョン」とか言われてた頃。
宝塚も好きだったので(天海祐希の新人公演あたりの頃が一番劇場通いしてた。ゆりちゃん、新感線の常連なんですね)派手なショー成分はヅカで十分補給できてたし、ナンセンスギャグ系は中島らものリリパット・アーミーがあった。
そういえば新感線では千秋楽のせんべい撒きが恒例だけど、リリパットではちくわ投げが名物だった。大阪の奇習か。
ともあれ、縁遠かった新感線を観たのはたぶん2000年のパルコプロデュース『犬夜叉』がはじめてで、元光GENJIの佐藤あっくんが意外にも舞台映えする芝居で大評判だったのを覚えてる。
この一度きり。
『髑髏城』も生では未見です。ちなみに狐晴明のあとで風髑髏をアマプラで観た(そしてこじらせた)

向井理なる俳優については、「an・an のセックス特集でヌードになったイケメン」で歴史が止まってました。
あれ、2009年だったんですね。ちょうど息子氏を出産した直後だ。ついこないだじゃん。
ネットでグラビアを見て、案外ムチポチャ…と感想をもった程度で、わたしの脳内は当然ながら「遠くの知らないイケメンヌードより目の前の息子の桃尻」でした。
芸能界デビューは2006年とのことですが、わたしはそれ以前からテレビをほとんど見ない、見られるような時間に自宅にいない暮らしをしていたし、テレビ イコール WOWOWかスカパーで欧州サッカーを夜中じゅう見るためのモニタでしかなかったので、ドラマやバラエティ、近年の邦画はほとんど通ってきてません。
学生時代に映画研究会で自主映画を撮っていた、といえばああよくいる通きどりねとおわかりいただけるだろう、邦画は1930~60年代の作品しかなかったし、ジブリなんて息子氏生まれてからはじめて観た有り様。
ただ、マスコミで仕事してたので、旬のタレントをキャッチアップする目的でチェックはしてた。女性誌、週刊誌もむちゃくちゃ読んでた。
ムカイリ。
顔はバツグン。
どうやら料理が得意で性格悪い俺様らしい(というもっぱらの世評)。
速水もこみちの上位互換、くらいのイメージでした。
過去の自分をタコ殴りに殴ったあとでおさむにスライディング土下座し、その勢いで五体投地したい。

とにかく、わたしの人生におさむはまったく無縁だった。
すべては、『麒麟がくる』からです。

推しのハセヒロが主演する(なぜハセヒロ推しになったかという経緯も話せばクソ長いので端折ります)とあって、『独眼竜政宗』以来、三十数年ぶりに大河ドラマを腰すえて見はじめた。
どハマりした。←チョロい
そして、
2020年2月16日。
画面の中の京の本能寺の門前で、明智十兵衛の前にあらわれた、‭ひとりのお方。

「止めい!」と甲高い声が飛んできた。
 馬に乗った高貴な少年が、数人の家臣に囲まれて悠然と門を出てきた。
 公方様じゃ、と群衆の中から声が上がる。

『NHK大河ドラマ・ガイド 麒麟がくる 前編』(NHK出版)

室町幕府第十三代将軍、足利義輝。

公方様。
あれが、公方様。

わたしの魂は完全に十兵衛と重なって、凛とした後ろ姿を見送りました。
ああ、この人だ。
生涯をかけてお仕えすべき方にめぐり逢えた。
すぐわかった。
ひと目でわかる。
どんな言葉もいらない。
あの瞬間から、向井理は〈わが心の公方様〉になりました。

室町の武と美の極北、
凛として真剣のごとく艶としてしだるる藤の花のごとし、
地上の清流、天の白雲、宇宙の神秘、
歩く花鳥風月、唯一無二の剣豪将軍、
義輝様、義輝様、義輝様…!

それ以来、月の夜には涙を流し、紫の花に胸をかきむしり、息子の「理科」の教科書を見ただけで動悸が止まらず、スーパーのごま油の棚の前で跪き頭を垂れることも辞さない、〈奉公衆〉としての人生がはじまったのです。

しかしコロナ真っ只中とあって大河公式からの供給がソ連時代のスーパーマーケット並み。ただでさえエリカとオリンピックのせいで開始遅れるわ回数少ないわいったん中断されるわ。
(主演俳優がやりたいやらせろっつった続編・外伝・スピンオフいまだ音沙汰なし。すぐ連絡よこせ 母)

あげく、俺たちの〈藤紫のつぼみ〉こと義輝様、退場はまさかの壮絶アバン死。
20時にドラマ始まって20時02分に死亡。
義輝様のお出番はどれも最高に名シーンぞろいなんだが、量が足りなくてよ。
マリみては原作だけで30数巻あるのに、『公方様がみてる』は24話で終了なのよ。
〈藤紫のつぼみの妹〉こと奉公衆たち、完全に低血糖で、心も震えるが手も震えっぱなしでしてよ。

そんな義輝様=烏帽子狩衣姿のおさむ不足がピークに達する中で投下されたブドウ糖こそ、
『狐晴明九尾狩』だったのです。

§ § §

語弊を恐れずに言えば、向井理という俳優はやはり映像向きの人だと思う。
いつだったか、ネットで

「 向井理 四捨五入したら ぜんぶ脚 」

という書き込みを見かけて首もげるほどうなずいたが、あの異次元のスタイルの良さは、もはやハンデですらある。
箱が大きいと、あの顔の面積では客席からの遠目がきかない。
わたしは舞台は全体を俯瞰したいからオペラグラス使わないんだけど、ACTシアターでわりに良席だったにもかかわらず、おさむの顔ちょいちょい見失ったもんね。頭部どこ? あれもしかして脱出ポッドだったの!? 逆ジオング??(いや、白いからラストシューティングガンダムのほうか) 
あと遠近感が確実に狂う。パースが仕事してない。
今回も(そしてきっとハリー・ポッターでも)観た人の感想がまず「顔、小っさ!!!」「足長っ!!!」になってしまうのは致し方ないし、肝心の演技の評価がなおざりにされがちなのも本人的にはとっくに織り込み済みかもしれません。

しかしそのお化け頭身が、『狐晴明』の舞台上ではむしろ抜群に効いてました。
〈陰陽師に化けた妖狐〉であるという、圧倒的説得力。
姿かたちの美でぶん殴られる。憑かれる。気を吸いとられる。
たたずまい自体がすでにこの役を演じるための最適解だった。セルフ特殊効果。ひとりVFX。

そして何より、声です。
ビロードのような肌触りの、悪い声。

一幕ラストの「また、のちほど」には痺れた。うっかりイキかけるほど痺れた。
あの声が、すべてもっていった。
ご本人、雑誌のインタビューで「舞台のときは毎回舞台用ののどをつくってる」と語ってましたが、納得の美艶声。
脚本の中島かずきさんの〈向井理の構造解析のたしかさ〉には恐れ入るばかりです。
キャラクター設定からセリフのひとつひとつまで、おさむの美味しいとこ全部盛り。
主役の中村倫也氏がまた極上ボイスの使い手で、終盤、ふたり言葉交わす場面は絶妙に多声音楽的な響きがあり、まるでバッハのマタイ受難曲を聴いているかのようでした。

そんなすばらしかった本公演ですが、消化できないまま残ったものが多かったのも確かです。
自分自身、劇団新感線式プロトコルに不慣れなせいで目が散りやすく、見落としもたくさんありました。
だから、ゲキ×シネは心の底からありがたかった。
物語の、おさむの芝居のディテールをしっかり拾うことができました。
パイが将監くん斬りながらあんな愉しげに笑ってたなんて。
あの悪い笑顔に気づかないまま何ヵ月も生きてた自分をタコ殴りに殴ったあとでおさむにスライディング土下座し、その勢いで五体投地したい。

で。
カーテンコールの幕がおりた瞬間からずっと頭の片隅にあった、ただひとつの疑問です。
ラストシーン、喜怒哀楽すべての感情をパイに奪われたはずの晴明がなぜ、泣いたのか──
ゲキ×シネを観てそれをどうしても解きたい、と思いました。
あんな地獄をなぜ、晴明に残した?

涙が零れても それでも

晴明と利風は、〈不二〉だったんだと思う。

中村倫也氏がまぁ舌を巻く器用さで、芝居もダンスも殺陣も緩急自在。すごい才能。(ぜひ歌もやってほしかった!)
だからよけいに晴明が〈enfant terrible〉=ひどく型破りで挑戦的で早熟な異才児みたいに見えるんだけど、人物造形としてはじつはまったく逆なんですよね。
彼はものすごく不器用で、不自由な人。自分の駆動軸が自分の中にはない、つねに他者との距離とバランスを緻密に測りながら生きている人物に見えた。
外部に対するセンサーの感度はきわめて高いくせに、自分自身をスキャンする能力はまるでデタラメ。
藻葛前をかばった場面で利風に心配されたように、突然キレた自分に気づかない。
式神に「あれ?先生、泣いてる?」と指摘されてはじめて流れる涙に気づく。
怒りも悲しみも、誰かをつよく求める気持ちでさえも、無意識に自分から手放そうとする。

利風は、そんな晴明という人間をあるがまま見ていた唯一の存在だったんだろうな、と思います。
兄弟同然とかライバルとか収まりのよい関係性を超えて、存在丸ごと向き合おうとしたただひとりの友。
晴明の生の感情をもっと引き出したい、もっと表現してほしい、解放してやりたいってつねに思ってた。きっと。
だからこそ「大陸にわたって、お前を超える」わけです。
私は、お前との間にあるリミッターを解除する。
真にお前の上に立つにふさわしい者になってもどってくる。これから先も、お前とともに歩むために。
だから、お前も。

この利風が晴明と交わした若き誓いは、わたしの脳内では完全に〈『潮騒』作/三島由紀夫〉でした。

その火を飛び越して来い。
何物にもまつろうな。何事をもわきまえるな。
恐れを捨て、勇気をもって、己を信じ、そして超越しろ──

そこに、妖狐のつけいるほころびが生まれた。
パイフーシェンは孤独な狐だったんだろう。
喰うか喰われるか。支配するかされるか。白か黒、プラスかマイナスしか選んでこなかった人生(狐生)。
パイは、きっと自分とはまったく違うロジックで生きる利風に驚き、羨望しただろう。
限定解除した大型バイクは、乗りこなせばむちゃくちゃ走る。
利風に乗っかれば突っ走れる。利風を使えば、違う景色が見られる。

利風になれば、晴明が待ってる。

ところがその奥には、さらなるほころびが残っていた。
この多重多層的な段構えが『狐晴明』のクセになるところだと思います。

パイは利風から「記憶」「能力」「知識」を喰らって完璧にパワーにした、つもりだった。
対する利風は九尾の妖狐と対峙するにあたり、何十手何百手先までの棋譜を練り上げていた。
自分ひとりの力ではこの強敵に及ばない。捨て身でなければ勝てない。
自分は命を失うだろう。
でも自分は、ひとり、ではない。

想像しただけで胸が震える。
はるか異国の地で「この身は妖狐に喰われても、故郷にもどれば必ずあの男が〈わたし〉を打ち果たしてくれる」と確信できるつよさに。
ゆるぎない理知の明晰さと、晴明への途方もない信頼の厚さに。

利風、まちがいなく心臓にファー生えてる。きみのほうがむしろお化け狐よ。

「及ばずながらな」
晴明のこの言葉が偽利風の正体を暴く糸口になったのは、あのふたりだけの誓いを、パイが知らなかったからでした。
利風個人の記憶や知恵は喰らえても、〈不二〉── 二つに見えてその実ひとつである友とのあいだの絆までは喰うことができなかった。
損得や利害ぬきで、自分を後回しにしてまで相手を想う。ただ想う。
利風が、すべてを超えて解放してやりたかった、晴明の生の感情。
晴明が、なによりも待ち焦がれた利風の帰還と、彼と歩む未来への希望。
それはパイにとってはまったく未知のものだったはずです。

全身全霊で倒さなければならない敵が、誰よりも愛する友の顔をしている。
彼の目が自分を見る。彼の声で語りかけてくる。彼の全身がそこにある。
それは、晴明にとってどれほどの絶望だっただろう。
(ふと、「髑髏城の七人 season 風」が頭をよぎる。
蘭兵衛は、かつて自分のすべてを捧げた男と同じ顔をした影武者の命を、身を挺してかばって散ったよね…)

最後の死闘の果てに晴明がパイを剣で貫いたとき。
時が止まり、晴明が伏せていた顔をそっと上げた瞬間。
本物の利風がもどってきたあの瞬間に、視界が真っ白に飛ぶほど衝撃を受けた。

ここで、その笑顔。
生命を懸けたすべてが、その笑顔になるんだ。

すごかった。
本当にすごかった。
あの局面であんな表情ができる向井理という役者の魂に、畏れすらおぼえました。

新感線ファンの方々の観劇レポをいくつか読ませてもらったけど、
「ありがとう。すべて私が願ったとおりだ」というセリフ、大阪の最終盤では千秋楽もふくめて涙声になることが何度もあった…と。
(もうダメいまキーボード打ってるだけで泣く)
この言葉に込められた利風の想い。
晴明が自分をどれだけ慕い、待っていたかをぜんぶわかったうえで、その晴明に自分の息の根を止めさせる。

その火を飛び越して来い。
何物にもまつろうな。何事をもわきまえるな。
恐れを捨て、勇気をもって、己を信じ、そして超えてゆけ。
お前の悔いも迷いも痛みも、すべて自分が背負ってあの世へもっていこう。
だから生きろ。
お前らしく。

内側(裏側?)から一部始終を見ていたパイも、きっと利風を畏れたし、その利風から全人生を託された晴明への憎しみで自分が崩れそうになっただろう。
こんな感情を、俺は知らない。
嫉妬、これが嫉妬。
パイは、利風/晴明との戦いをつうじて「嫉妬」という生の感情を学習してしまった。
嫉妬する。すなわち、満たされない飢えをどうしようもなく自覚するということです。
だから、パイに残された報復のすべは、感情を喰らって奪うことしかなかった。

§ § §

話はもどります。
ラストシーン、喜怒哀楽すべての感情をパイに奪われたはずの晴明がなぜ、泣いたのか。
正直にいうと、わたしにはやっぱりいまだにわかりません。
感情を失った世界で生きてゆくという落としどころについては、
一匹の妖狐にも五分の魂、パイフーシェンが人の世に刻んだ渾身の爪痕なのかな、とか、
人間のなす業に完璧ということは決してなくて、それを戒める意味での晴明への枷のようなものか、とか、
それなりに解釈はつけられると思うのですが、あの涙の意味はうまく腑に落ちてこない。

いまは、あの涙は、利風が晴明に残した最後の「しるし」なんじゃないか…と思ってます。
パイが滅びて利風の生命は失われた。晴明の感情は抜き取られた。
でも、利風の心──〈不二〉である晴明にあずけた願いは、誰にも奪われていない。
さぁここからだ。この国を頼んだぞ。
そんなメッセージを伝えるために、利風の念の最後のひとしずくがあの涙になったのだとしたら。

狐晴明には『約束の未来』という、曲も詞も全力でオタクを昇天させるすばらしい劇中曲があります。
本来はそれ以外の楽曲で作品を語るべきではないと思うのですが、思うが、思うんだけど、どうか赦してほしい。
あの晴明の光る涙を見ながら、わたしの耳にはColdplayの「Fix You」が聴こえてた。

***

When the tears come streaming down your face
When you lose something you can’t replace
Tears stream down your face
And I

 涙が頬を伝って流れるとき
 かけがえのないものを失ったとき
 涙が君の頬を伝って流れる
 そして僕は

Tears stream down your face
I promise you I will learn from all my mistakes
Tears stream down your face
And I

 涙が頬を伝って流れる
 約束するよ、失敗から学ぶことを
 涙がきみの頬を伝って流れる
 そして僕は

Lights will guide you home
And ignite your bones
And I will try to fix you

 光が君を居るべき場所へと導いてくれる
 君の心の奥に火を灯す
 僕はそんな風に、君を支えてゆくんだ

***

これは、この世を去りゆく利風からのアンサーソング。
たとえ姿は見えなくても、声が届かなくても。

永遠の約束の中で、ふたりは生きつづける。



というキモさ限界ポエムを号泣しながら大声で詠み上げずにはおられぬほどハマった『狐晴明九尾狩』でした。

劇団新感線のすごさは今さらド素人が語るまでもなく。
キャストについても、手放しで称える以外になく。
ゲキ×シネのOPも最高だなー。
「約束の未来」で踊る晴明に重なるように最後に浮かび上がる〈向井  理〉のクレジット。白舟隷書体があんなに似合う名前がほかにあるか(いやない)

いまはただ、向井理という役者について、あえて言挙げしたくてたまらないのです。
(すいません、長くなるので先に帰っていただいて結構です…)


震えてるこの腕が 奇跡になる

『麒麟がくる』で義輝様に出会いまず一番に驚いたのは、〈お芝居の上手さ〉でした。
いや言葉がちがうな、〈お芝居の異質さ〉というべきか。
あの錚々たる顔ぶれの中、彼は演技の“手数”とは別の次元の役者なんだな…と。
麒麟という作品全話通じてそう思ったのは、向井理と坂東玉三郎丈のおふたりです。

演じる、というより、そこにある。
役としてただあろうとする。
もちろん、そもそも美が桁外れだからこそ成立するわけで、ほら本当にウマい米ってきちんと炊くだけですでにご馳走で米おかずにして米食えるじゃないすか、そういうことです。

向井理は正直な俳優だと感じる。いいセリフをもらうとしっかり語る。そして、たいていの俳優が眼ヂカラ、全開でここぞという感情を伝えてくるところを、向井の場合は眼を伏せたほうが伝わってくるものがある。私の勝手な想像でしかないが、この俳優は宇宙の果てしなさ、人間のちっぽけさを知っているように見える。ひとりの人物に内包された巨大な欲望と慎み深さ。それが伏せた瞳の影に出る。

telling,「麒麟がくる」全話レビュー11

木俣冬氏のこのレビュー以上の向井理評をわたしは知らない。

この俳優は宇宙の果てしなさ、人間のちっぽけさを知っているように見える。ひとりの人物に内包された巨大な欲望と慎み深さ。それが伏せた瞳の影に出る。
(引用2回目)
(太字)

第11話「将軍の涙」で、朽木の庭に向かい、舞い散る白雪でくるむようにことばを紡ぐ義輝様。
ほぼおひとりで語る場面、2分近くの長ゼリフもある中で声のトーンは淡々として揺らがないのに、一言一句すべてにちがう温度を感じられる。
なつかしさ、淋しさ、焦り、悔い、愁い。
ためらいながらかすかに震える睫毛、唇、のどぼとけ。
画面越しに、すうっと朽木の冬の空気が肺に入ってくる。
ああ、この人はこうやって役とともに「ある」人なのか。

ことばや感情を投げかけるのではない、そっと残り香をおいてゆくようなお芝居。
「演技力」などという常套句で片づけたくはない、「たたずまい」とか「気配」のような何かです。

わたしの尊敬する作家 橋本治が〈美意識〉に関してこんなことを語っています。

『美しい』というのは、幸福でもありえて、しかし不幸でもありえるような人間が、自分の『孤独』というものを核に据えて、格闘しながら捕まえて行くものでもあります。

『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 (ちくま新書)

足利義輝は、京を美しく飾る人形として利用され、弑されたかもしれない。
しかしそこには、つよく大きな将軍、麒麟をよべる男たらんとする義輝様ご自身の「美意識」がたしかにあった。
孤独にふるえ、無力感にもがき、不条理に耐えて、それでも最後まで誇りを手放そうとなさらなかった。
「生きざま」がたしかにあった。
向井理という役者は、たたずまいでそれを示そうとした。

将軍の美しさを「演じる」のではない。
美しい将軍が「ここにある」と。


わたしの中の義輝様って、じつは作画がよしながふみ先生なんですよ(唐突)
初期の傑作『ソルフェージュ』に、アリア「もう飛ぶまいぞこの蝶々」を歌う主人公の若き声楽家についてこんなレビューが出てくる。

若い時分というのは どうしても その曲を一小節たりともつまらなくは歌わないぞという 力みがあって
それが 聞いている者を うんざりさせる時が あるものだけれど
不思議な事に 田中吾妻の歌声には それが全く無いのだ
むしろあまりにあっけらかんと 歌いあげてしまっているので
彼の歌声には一種の悟りのようなものすら感じられるのだ

『ソルフェージュ』(花音コミックス)

あっけらかんとした表現の中にある悟りのようなもの、というのはまさによしながふみの作品自体の特徴にほかならない。
そっけない、クールでシニカルで多くを語らないキャラ。
長い無言。ため息。
背景の描きこみも凝ったトーン使いもない。空白。ベタ塗り。
わかりやすい装飾をまとわない。おもねらない。
だからこそ、光も闇も純度が高い。
同じ手ざわりを向井理にも感じるのです。
(よしながふみ作品、絶対絶対絶対おさむハマると思う)

コロナ禍にもしただひとつ意味を見つけるとしたら、それは「麒麟がくる」という物語とともに歩みをあきらめなかったことだと思います。
制作陣も、演者も、視聴者も。
3ヵ月弱もの中断のあと、再開が第22話「京よりの使者」からだったというのも、あまりに運命的でした。
あの頃、おさむはインタビューで
「演じるのは当たり前と思っていたけれど、あっという間にすべてなくなってしまった」「何もしない時間に自分を見つめ直し、またカメラの前に立って演じられる喜びは何物にも代えがたかった」
とくり返し語ってる。
喪失と葛藤と、ある種の達観と。
それはそのまま、義輝様の最期の日々に重なる軌跡だったかもしれません。

そして麒麟以降、おさむの八面六臂の活躍、その吹っ切れ具合にさらに驚かされました。
『バイプレ』の理科の理でおさむちゃんも、『悪女(わる)』のT.Oさんも『着飾る恋』のシャッチョも『おとりよせ』榎村先生も『婚活探偵』黒崎も、おさむがおさむを演じるというか、おさむが自分がおさむであることを躊躇わないというか、一番大きいのはおさむ本人とおさむ以外の人類のあいだでおさむに対する解釈が一致という手ごたえ。
いみじくも榎村先生の
「残念だったな、あいにくこの美貌は生まれつきだ」
というセリフ、
いまのおさむはあのセリフを自虐でも卑屈でもなく、歴史の事実・宇宙の真理・天の配剤として言えるし、世界がそれを受容する。

何物にもまつろわず、何事をもわきまえず───
さまざま格闘の時を経て、向井理は〈美しい〉自分を引き受ける覚悟ができたんだろうな、と思う。


〈美しい〉ということは、祝福です。
わたしたちのぱっとしない日常に、光をあて、色をつけてくれる。

「国誉め」というのは、小高い丘に立って、四囲の風景を仔細に叙して、「民のかまどはにぎわいにけり」と告げることである。山の緑がどれほど深いか、谷川の清流がどれほど透明か、鳥や虫の声がどれほど多彩か、人々はどんなふうに日々のたずきの道を整えているか。そういうことを淡々と記述することによって、「このように世界があることは、わりと奇跡的なことなんだよ」と教えてくれることである。同じ意味で、「右に見える競馬場、左はビール工場」と歌ったユーミンも、「江ノ島が見えてきた。俺の家も近い」と歌った桑田佳祐も、「長崎は今日も雨だった」と歌った前川清も、「国誉め」の伝統をただしくふまえている。それらの歌曲が「国民歌謡」として久しく歌い継がれているのは、それが「祝福」の本義にかなっているからだ。

『橋本治と内田樹』(ちくま文庫)

花々が香り、風がふきわたり、雲が流れて、月が輝き、おさむが美しい。
それは、この世界を生きるわたしたちへの〈祝福〉という名の贈り物なのです。

ほら、きみも五体投地しながら受け取りたまえ。

§ § §

いまの願いは、わたくしの命尽きるまで、できるかぎり多種多様なおさむを浴びたい、という一点です。
新感線やハリポタのような大仕掛けの公演もいいけれど、一度でいいから、小さな劇場でシンプルな科白劇を観てみたい。
『ラヴ・レターズ』、再出演してくれないかな…
昨春のパルコ劇場を見逃したのは痛恨の極みだった。
わたしはこの朗読劇がたまらなく好きで、90年の初演以来幾度となく足を運んできました。
(最も印象に残ってるのは、92年野田秀樹と毬谷友子の回と、2012年三谷幸喜と神野美鈴の回。劇作家と憑依型女優のカップリング最高すぎるんよ…)

アンディーとメリッサ、幼なじみの男女が50年間交わし続けたラヴレターを読み上げる。
音楽はない。
舞台には小さな丸テーブルと二脚の椅子。
ただ、それだけ。

それだけなのに。

おさむのあの声で、
「これが最後だとは思わない」
というセリフを聞きたい。
最後の手紙を読む顔を、見たい。
本を閉じて、はじめてアンディーのほうを向いたメリッサのように、たぶんそのとき、〈向井理〉というこの世の奇跡にほんとうの感謝を捧げられる気がするのです。



*文中の「Fix you」の日本語訳は筆者個人によるもので公式の訳詞ではありません

#向井理
#狐晴明九尾狩
#麒麟がくる