「ら」抜き言葉は、わかりやすい話し言葉である。

 私は塾講師の仕事をしています。
 とある生徒が「〇〇食べれない」と話していると、ベテランクラスの国語講師はすかさず「『食べられない』でしょ。ら抜き言葉は、間違った日本語ですよ」と生徒に注意するのをよく見かけます。
「おいおい、ちょっとまたんかいジジイ! 間違った日本語やと! おんどれ今、全関西人を敵にまわしたで! われ! しばいたろか!」と心の中で叫びます。決して口には出しません。

 そもそも関西弁は、ら抜き言葉なのです。

 ら抜き言葉とは、「食べられれる」など、可能の意味の言葉の「ら」を抜き、「食べれる」と言います。「食べられる」の意味は他にも受け身の意味もあります。「魚を食べられる」が可能。「魚に食べられる」が受け身。受け身の意味ではら抜き言葉は使いません。「魚に食べれる」とは言わないのです。可能も受け身も「食べられる」と言います。使い分けは助詞にあります。いわゆる「てにをは」ですね。「魚を」だと可能。「魚に」だと受け身。では、「魚は食べられる」ではどちらでしょうか?「魚が食べられる」だと・・・。どちらの意味も考えられますね。

 関西弁では、可能のときは「魚、食べれる」と言い、受け身のときは「魚、食べられる」と言います。可能の意味で「食べられる」とは使いません。しかも、助詞を省略します。

 敬語では、本来なら「召し上がる」とするのですが、「先生が魚を食べられる」とちょっとフランクな尊敬語でも「食べられる」と使うでしょう。関西弁では「先生、魚、食べはる」となるのです。関西の敬語はすべて動詞に「はる」をつけるのです。「〜しはる」ってね。

 標準語では、可能でも受け身でも敬語でも全部「食べられる」。関西弁では、可能は「食べれる」、受け身は「食べられる」、敬語は「食べはる」。めっちゃわかりやすくないですか?

 ら抜き言葉が生まれた理由は・・・? 私の推測ですが・・・大阪は商人の街。お客さんとのコミュニケーションを大切にする。たくさん話したい。助詞を省略したれ! 助詞がなくなるとわかりにくい。ほんだら、動詞自体を変えたらええねん。ら抜き言葉が生まれる。こんな感じではないでしょうか。

 つまり、「ら抜き言葉は間違った日本語」、とするのは、「関西弁は日本語じゃない」と言ってるのと同じです。本来「ら抜き言葉」が間違いだとするのは、標準語の書き言葉です。そもそも、大阪弁に書き言葉はありません。大阪の学校で使う国語の教科は関西弁では書いていません。関西人も作文を書くときは標準語で書くのですよ。でも、読むときは関西弁のイントネーションですけどね。
 
 大阪弁だと「ら抜き言葉」はよしとしているのですから、標準語でも、話し言葉なら「ら抜き言葉」でもいいのではないでしょうか。

 ちなみに私は、数学の講師です。「お前が『ら抜き言葉』を語るなー!」と言われそうですね。

おしまい


追記
助詞の省略についてですが。主語や目的語が1文字の場合、関西弁では子音を伸ばします。「手ぇ〜しびれた」「目ぇ〜かゆい」「毛ぇ〜生えた」「血ぃ〜でた」など。

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