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私は、テレビ書籍端末・スマホに類する情報端末一切無し、プリペイド携帯しか持っていない。 分かるかね?

まず始めに言っておくが、私は女性とお付き合いしたことがない。
セックスの経験はある。

で、お馴染みの観念文学を今日も書くとしよう。


私の今の状況は、テレビ書籍端末・スマホに類する情報端末一切無し、プリペイド携帯しか持っていない。

 分かるかね?はっきりいって、まあ私の思索だけでどこまでどの程度まで行くか?との手合いです。


それは日本語論から脳と意識、 精神世界まで、しかも言っとくけどね、すべて荒唐無稽じゃないから。

どういう論法かというと、もはや最初からすべて疑ってかかる科学はもはや疑わしいという事で、科学はきり無いから。はっきりいって、時間の無駄。


私はね、はっきりいってそれしか考えられない、ただ盲信はしないよ。

非科学という批判はあたらない。それはすでに科学を前提とする世界、もしくは、科学の非合理性を最初に断った上で、ナンセンスという事。

それについてはもはや幾度となく、言及した上で、はっきりいって日が暮れてしまう。いや、人生ですよ、人生。人生、終わっちゃいます。だから、非科学でもなんでもいいんです。消去法的にそれしか考えられない、そして、それは間違いなく、一理ある。

道理として適切だと推し量れるなら、仮説でも何でもいいんです。GO! です。常識とかじゃないから、論理と感性で。 とにかくとりあえず、いつも同じところで、足踏み躊躇している時間は、もういいです。いつも同じところで躊躇しているのが、関の山ですが、とりあえず、 はしごでも吊り橋でも何でも、渡れるもので渡る。

過度的なものはあとで、全体像が見えて、確信のうちに、その確固たるトータル的な整合性こそが、その必然性が論拠となる。橋でも棒でもいいんです。

とにかく渡る事、先に進む事。はっきりいって、こういう古今東西の哲学者や人文科学者がいくらひねくりまわしても答えの出なかった事をいつまでもひねくりまわすのは、具の骨頂というものです。

いいんです。答えの出ないものは、答えが無いのかもしれないし、 その論法では答えがないのが答えです。



先へ行きましょう。

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