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生きるのはつらいよ

私は、44年間1型糖尿病と共に生きて来た。(過ぎれば速い💦)
その前から、私自身生きる事がつらい、と思っていた。
私にだけ、なんでこんな事ばかり起こるのか?
なぜ?どうして?
それは、7歳の時から17歳まで続いた。
その10年の中の7歳から14歳を綴っていきます。

消したい記憶

私は、北九州のとある町で生まれた。生後半年の頃、交代性内斜視を患った、3歳くらいの時病院で手術をしないと治らないと言われていたらしい。5歳の時手術を受けるため予約をしていたがその時、母が急性腹膜炎を起こし私の手術が一旦キャンセルとなり、手術を受ける事無く保育園そして小学校に通いだした。小学校に入学してすぐにいじめが始まった。
毎日毎日、通学途中に
「おーいどこみとるん」「ひんがらめ!」と飛び交う言葉と石を投げられたりある時は後ろから蹴られたり。
学校に通うのがいやで登校拒否となるが、うちの母は許すはずがない。
「言われっぱなしで帰ってくるな!やった奴にはやり返せ!」と電柱にしがみついても無理矢理引っ張られ泣き叫んでも連れて行かれた。
担任に話しても何も変わることはなく、余計にひどくなった。
友人も作る事無く、と言うより出来なかった。
毎日「死にたい」「行きたくない」「なんか病気になれば行かなくて済むのに」と学校と言う場所は私にとって地獄でしかなかった。
そんな私も反撃に出た。4年生の時余りにも腹が立ったので、やり返した。やられた事をやり返した。
私も今までやられっぱなしで、訴えて来たのに何も対処しなかった担任が反応した。「暴力はいけない。」と
私は放心状態。暴力をいけないと言うなら私に言うのはおかしいと何度も言っても全く聞き耳を持たない。親に話しても「告げ口をした」とまたひどくなる事はわかっていた。そこから先生と言う生き物が信用できなくなった。
理由はいまだにわからないけれど、賢い子でPTA会長の子だった事だけはわかる。私、勉強は全くやる気がなかったので💦その格差たるや・・・
学校に行くと言う事は私にとって無意味だった。
そんなある日、父の仕事の都合で転校出来る事になった。

なになに?どうした?なーんだ

11歳の春、福岡県の筑豊地域に引っ越した。
周りは田んぼや畑ののどかな田園地域、しかし転校してもまた同じ様な事が起こるかもしれない不安もあった。
しかし、これまでの生活とは180度違った。
1年生から6年生まで2クラスずつしかなく全校生徒も500人くらい(今では多いほうかな)で、学校が創立100周年を迎え木造平屋で横に長い校舎だった。毎日学校が楽しく、友達もすぐに出来た。私の目の事を指さし悪口を言う人は何人かいたがそれを聞きつけたら、その子を指さしその子に対して言われたくない事を言う。「言われたらどんな気持ちになる?悲しいよね。いやよね。同じなんよ」と離れていても聞きつけたらすぐに駆け寄ってくれて守ってくれていた。それが続くと学校内で誰も私の事を指さす人はいなくなった。放課後は友達と野山を駆け回り、自転車で友達の家に遊びに行ったり、当時女子の間で流行っていたゴム飛びしたり今まで経験したことのない時間だった。とても楽しかった。嬉しかった。

ある日突然、全身に蕁麻疹が出た。
近くのかかりつけの医院に受診、先生も一応血液検査してみようかと。
その日には結果が出なかったので数日後母と結果を聞きに行った。
「血糖がなんか高いから一度大きな病院で調べてもらったほうがいいと思う、他には異常がないけど念のため」と言われた。らしい💦
(私には記憶がなく、母から聞いた)
紹介状を貰い、市内の総合病院へ
勿論血液検査をしてその日だったか日を変えてなのか?覚えていないけど検査結果を聞いた。
「200いくら?(母も覚えていない)そんなに高くはないから、年に1回の検査で様子をみましょう。」と言う事でその日以来、その病院には行っていない。その後、特に変わったこともなく、痩せてはいたが元気で小学校を卒業そのままの中学生へ、小学校は近かったが中学校は毎日2㎞くらい歩いて通学だった。それでも毎日の通学路には踏切があり田んぼの畦を歩くとかなり向こうからくる汽車が見える。いつもの通学時間にその汽車の窓から手を振ってくれる高校生集団がいた。「おーい!おはよー!がんばれよー!」と「ありがとー、いってらしゃーい!」と走りすぎる汽車を追う様に走りながら大きく手を振り返す。時には踏切で待ち伏せして、それが楽しくて嬉しくて毎日遅刻もする事無く通学してた事を思い出す。当時はエースをねらへが流行っていて、私もテニス部(軟式)に入部。毎日毎日走り回っていた。(あの頃は本当に楽しかった。)そんな田舎での生活も3年で終わりをつげた。
父の仕事の都合で以前住んでいた北九州へ帰ることになったからだ。






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