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1型糖尿病とともに

私は1966年北九州で産声を上げた。小さい頃はとてもスリムで近所の人に、「ちゃんとご飯食べさせとるん?こんなに痩せて…」と言われ、おかん(母)は、「親は食べんでも子供にはちゃんと食べさせとる!」と言っていたそうだ。母は今も昔も変わらない口の悪い母で、その母の影響をこよなく受け継いだのは、まぎれもない、この私だ。

私の記憶には、5・6歳の頃からしかないのだか、確か母の妹が結婚するからと、家族4人(父・母・妹)で岐阜まで夜行寝台で行った事を何気に覚えている。ガタゴト揺れる二段になったベットの上の段でおかんと寝たような気がする。結婚式に出て翌日ここまで来たついでにと、東京にいるおとん(父)の兄や弟に会いに新幹線に乗ったらしい。が、その事は全く覚えていない。

数日、東京のおじさんの家に泊まり、上野動物園に連れて行ってもらったり、東京タワーに連れて行ってもらったり、霞が関のビルを見たらしいが、全く覚えていない。しかし、当時の写真が残っていたので間違いない様だ。今もあの時の写真が残っているのかどうかは、おかんにしかわからない。もしかしたら捨てているかも!

パンダのランラン・カンカンが日本に来る前の年だったから、もしあの時パンダを見ていたら、もっと記憶がさだかだったかもしれない。このパンダを見れなかった事が後々、私を苦しめる事になる。

6歳になった時、私は保育園に通い始めた。当時担任だった先生がすっごく好きで、先生も卒園しても、よく家に来てくれていた事を覚えている。しかし、今になって思うと先生が家によく来ていたのはおかしい事で、よくよく考えてみると、その当時から先生は私の事を心配してくれていたんだと、私が小学校に通い始めていじめに遭う事を気にしていてくれたんだと。

そう、私の楽しいかったはずの幼少期は、小学校に入学してから終止符を打つ事になり、その頃から学校という組織と先生という人間を信用出来なくなった始まりであり、幕開けとなった。


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