誰が分離の法則を間違えたか?(その1)

遺伝の法則(分離の法則)には2タイプある

10月某日、研究室の先輩Kさんからのメール。
『今期から新たに受け持った講義で、今日遺伝の基礎を話しました。メンデルの法則を説明しながら不安になり、分離の法則を改めて調べたら、2パターンの記述があることを見つけました。君はどちらで教えていますか?』

『Kさんすみません、私当時は分子遺伝学者を名乗っていましたが、今の肩書きは分子細胞生物学者でして、大学で遺伝を教えた経験がないのです...』

Kさん

『そうですか、2つのパターンとは
(1) 純系のかけあわせで生じたF1を自家交配して得たF2に、劣性の形質が生じる(分離してくる)
(2) 体細胞の対立遺伝子は配偶子では分離して受け継がれる(子は親から対立遺伝子のうち片方だけを引き継ぐ)
で、どちらも「分離」という語が使われていますが、分離する中身が違います。自分は1と習った気がします。今日は「メンデルは実験で1の法則を発見した。彼は2の挙動をする遺伝因子を仮定することでその現象を説明した」と説明しました。ウェブ検索では、日本語サイトでは1と2が半々くらい、英語サイトでは2が多いように思います。中学高校では現在2で教えているようです。』


 例えば、日本の遺伝学の大元締め、国立遺伝研の「遺伝学電子博物館」には以下のように書かれています。

“この実験で得られた雑種第一代 (F1) どうしを交配すると、雑種第二代 (F2) に表面が滑らかで丸いもの (遺伝子型はAAまたはAa) と、シワが寄って角ばったもの (遺伝子型がaa) とが3:1の比で生じる。このように雑種第一代では現れなかった劣性の形質が雑種第二代で分離して現れる現象を分離の法則 (law of segregation) という。”

『自分も(1)で習った気がします。確かに日本語のウェブサイトの記載も(1)が多いですね。10年くらい前に出た東京化学同人の生物学辞典も(1)を採用していました。しかし!最近出た日本遺伝学会監修の「遺伝単」は以下の記述でしたよ*。(*日本遺伝学会は、dominant 優性、recessive 劣性、allele対立遺伝子、locus遺伝子座という遺伝学用語を、顕性、潜性、アレル、座位に変えることを提案中で、学会監修の「遺伝単」でもまさにその用語表記になっています。今後は新しい表記が主流になっていくことと思いますが、本稿では昔の教科書を引用する場合は、原文のまま、優性・劣性、対立遺伝子で表記しています)


“我が国ではメンデルの法則は「分離の法則」「顕性の法則」「独立の法則」の3セットで教えられることが多いが、海外ではこのような扱いをすることは少ない。これらの中で、もっとも重要なのは分離の法則であり、「メンデルの第一法則」と呼ばれることが多い。「分離の法則」は時に3:1などの分離比の意味だと誤解されることもあるが、そうではなく、ある座[位]についてヘテロ接合の個体がもつ二種類のアレル(対立遺伝子)が、減数分裂の際に均等に配偶子に分離するという意味である。”


 (2)が誤解だと言い切っていますね。手元にあった英語版のキャンベル生物学(11/E)の該当章には、こう書かれていました。

メンデルはエンドウ豆の掛け合わせ実験で、F2で 3:1に分離する7つの形質を発見し、その結果を説明する以下の4つのコンセプトからなるモデルを提唱した、と書かれています。
1. 遺伝子の異なるバージョン(アレル)があり、これが形質の違いの原因となる
2. 個体は親から1アレルずつ遺伝子を受け取る
3. アレルにはdominant, recessiveの性質がある
4. 二つのアレルは配偶子形成の際にsegregateする(これをlaw of segregationと呼ぶ)

 少なくとも、現在は世界的にも(2)をlaw of segregationと言っているようですね。日本の教科書はどの時点から間違えていて、いつ正されたのでしょうか。調べたら面白いかも』

Kさん 

『メンデル当時「配偶子」という概念はまだなく、メンデルの発見によって遺伝的な意味での配偶子の概念が生まれた、と思っていたのですが。もしそうなら「分離の法則」に「配偶子」が登場するのはおかしいと思います。つまり、メンデルにとってはまだ「配偶子」も仮説な訳ですから、仮説を法則と呼ぶのは変ですよね。同じことを言うにも、メンデルが発見した法則は「子は親から対立遺伝子のうち片方だけを引き継ぐ」と言うべき気がします。3つのメンデルの法則が法則として命名されたのは、再発見のときなのですね。そのため、「配偶子」という言葉を使った方が分かりやすかった...とか。ちなみに、細胞学的観察で減数分裂が発見されたのも、メンデルより後の1890年頃だそうです。』


 学生に常々、教科書の記述を鵜呑みにせず、原典に当たれと言っている私としては、メンデルさんの最初の論文を調べざるを得なくなりました。ドイツ語の原著を読むのはめんどくさいなあと思いましたが、幸い英訳がネットで簡単に手に入る時代でして(^^;)

メンデル論文の英訳(Experiments in plants hybridization, 1865)をダウンロードして読んでみましたが、論文中に雑種の卵や花粉はAもしくはaのどちらか一方の因子のみをもっているはずであると書かれているんです。減数分裂が見つかる以前から、そう予測していたというのは凄いですねえ。』


具体的にはこんな記述。

Since the members of the first generation spring directly from the seed of the hybrids, it is now clear that the hybrids form seeds having one or other of the two differentiating characters, and of these one–half develop again the hybrid form, while the other half yield plants which remain constant and receive the dominant or the recessive characters in equal numbers. (F2で今でいう遺伝子型が1:2:1となっていることを記述)
We must therefore regard it as certain that exactly similar factors must be at work also in the production of the constant forms in the hybrid plants. Since the various constant forms are produced in one plant, or even in one flower of a plant, the conclusion appears logical that in the ovaries of the hybrids there are formed as many sorts of egg cells, and in the anthers as many sorts of pollen cells, as there are possible constant combination forms, and that these egg and pollen cells agree in their internal compositions with those of the separate forms. (雑種の卵と花粉は、親が作る卵と花粉と同じ組成の因子を、考えられる一定の組み合わせで別々に持っているという論理的帰結になると記述)

 減数分裂が発見される前ですから、卵や花粉ができる際に遺伝因子が分離する、という直接的な記載はこの論文中にはありません。ただし、ABとabの掛け合わせの第二世代(F2)以降におけるそれぞれのタイプの出現頻度まで議論していて(大学入試頻出問題的)、そう書かれているも同然ではあるのですが。


(しばらく時間があって)Kさん

『あれから(悔しいので)図書館で調べてみました。やはり、3:1などの形質の分離比のことではなく、遺伝子が配偶子に分離して入るという法則、が正解のようです。

①雑種第1代の自家交配の子孫では、優性形質と劣性形質が3:1の割合で分離する。
 「生物学辞典」 第1版(1960)岩波書店
 「基礎遺伝学」 黒田行昭著(1995)裳華房
 「生物学辞典」(2010)東京化学同人
②1対の対立遺伝子は配偶子(花粉や卵)に1つずつ別々に分離して入る。
 「生物学辞典」 第2版(1977)〜 第5版(2013)岩波書店
   → 第2版・第3版で「1の定義は誤解」との記述あり
 「細胞の世界」 原著第5版(2003年)西村書店
 「Essential 細胞生物学」 原書第4版(2014年)南江堂
 「遺伝単」 日本遺伝学会監修・編(2017年)NTS
   → 「1の定義は誤解」との記述あり
 中学・高校の教科書(現在)

 ①の定義は誤解だとはっきり書かれていて、少なくとも今では②が正しい定義だということです。この誤解を生んだのは、岩波生物学辞典第1版の記述ですかね。私が高校に入る直前、岩波の第2版が出て訂正されたものの、なかなか広まらず、第3版(1983)でも「それは誤解だ」という記述を残した、という気がします。』

『「生物学辞典」 第1版(1960)岩波書店で、この項目を書いた人は誰ですかね。昔の高校の教科書の記載も見てみたいものです。しかし、最近の生物学辞典(2010年東京化学同人)もいいかげんなものですね。でも実は、私もこの辞典で4項目を執筆しているのですが、過去の辞典の記述を参考にしたというか、それにかなり引っ張られた記憶があって、あまり人のことは言えませんけど…』


 さて、最初の方で紹介した遺伝学電子博物館の記述、出典は「基礎遺伝学」 黒田行昭著(1995)裳華房となっていますが、今の認識では間違っていることになりますな。検索すると上位で引っかかるサイトですから、修正をお願いすべきなのでしょうか?  

(その2に続く)


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