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第二十九回「あしたのジョー」(その1)(2018年4月号より本文のみ再録)

 今年は『あしたのジョー』連載開始50周年記念イヤー(※1)である。少年マンガ史に残る不朽の名作と賞賛され、多くの読者から今なお愛され続けている作品であることはご存知のとおり。1968年に『週刊少年マガジン』誌上で連載が始まって以来、舞台に実写映画、2度にわたるテレビアニメ放送・劇場版アニメ公開も話題となった。近年でも人気アイドル歌手の主演による実写映画や、パチンコやCMキャラクターへの起用をキッカケに新たなファンを増やし続けている。
 そんな本作の連載開始50周年を盛り上げるため、貴重な原画などが見られる『あしたのジョー展』の開催(※2)や本作を原案としたテレビアニメ『メガロボクス』(※3)の放送開始など、数多くのプロジェクトが発表されている。新たなジョーブーム到来の機運が高まる2018年を記念して、本連載では『あしたのジョー』と梶原一騎について語っていこうと思う。

※『あしたのジョー』の作品データとあらすじ


「あしたのジョー」が目指したもの

 企画の発端は『巨人の星』の大ブレイクによる、熱狂的な“スポ根ブーム”到来前夜の67年。当時梶原の担当編集者だった宮原照夫による発案であったとされている。
 「小説には純文学と娯楽小説というジャンルがある。『巨人の星』はいわば大娯楽マンガだ。次は純文学マンガに挑戦したい」(※4)と考えていた宮原は、その舞台にふさわしい題材としてボクシングを選出し梶原に提案する。幼少の頃に梶原自身が初めて覚えたスポーツでもあり、今なお愛着のあるテーマの選出に梶原も乗り気になると、大ヒット連載中の『巨人の星』の打ち合わせもそこそこに、ふたりで次回作の構想を練り始めたという。宮原の回想によれば梶原はこう語ったと言う。
 「今度のボクシングで純文学マンガができたら、マンガの世界は活字の世界に比肩する。いや、しのぐ大変な文化メディアになるかもしれない」(※4)
 60年安保から70年安保に向かうなかで闘争は熾烈さを増し、学生運動も過激で陰惨な方向へ流れてゆく。迷走し揺れ動く世相を背景に、これから日本がどうなっていくのかもわからず明日をも見えない現在のをもがき生きぬく主人公を模索していく梶原。その脳裏には、これまで少年マンガに多かった優等生的キャラクターへのアンチテーゼとして、徹底した不良少年のイメージが浮かんでくる。しかもその主人公はボクシングを通じて更生し、努力と精進で王座を目指すといったありきたりの展開ではなく、自身の胸に秘めた“美学”を貫き通して生きていく。梶原はその生きざまを、奇をてらわずに丹念に追うことで、これまでにない純文学のような作品世界をマンガで描こうとしたのだろう。
 この試みに対し、読者に余計な先入観を持たずに作品を読んでほしいと言う意図から、もうひとつのペンネームである“高森朝雄”名義で書くことに決めたのは有名な話だ。

矢吹丈に重ねた梶原自身の半生

 こうして生み出された主人公・矢吹丈について梶原は、自身の半生を投影した存在であることを明かしている。
 「リングに上がったときのジョーのモデルは他にいるけど、15歳で感化院に入れられたり、ケンカをしたりという、ジョーのアウトローの生き様っていうのは、俺の体験そのままなんだ」(※5)
  このような発言は『あしたのジョー』連載終了以降、度々語られている他、実弟の真樹日佐夫もその事実を認めており、ファンの間では周知のネタである。もちろん梶原の半生そのままというわけではないが、幼い頃から癇癪持ちのケンカ好き。近所の子供たちのボスとして街で悪事を重ね、扱いに困った両親により感化院に預けられるも、幾度も脱走を繰り返す。梶原の自叙伝や評伝などを丹念に読み込んでいくと、矢吹丈がプロボクサーになるまでの展開にはそれとおぼしき梶原のエピソードが散見される。
 なかでも筆者が特に注目したのは、詐欺により鑑別所送りとなった丈が心理テストを受ける場面だ。「両親」の問いには「無責任」、「愛」には「いねむり」と答える丈。これは親の顔も愛情も知らずに孤独に育った者にしか理解ができない表現ではないだろうか?この場面に筆者は、両親の愛情を受けて育つべき多感な時期を、離れ離れの環境で長期間過ごすことを強いられた梶原が抱える複雑な胸中を見た想いがした。そして、マンガという表現に隠されてはいるが、自身の赤裸々な半生をここまで物語に投影させた、梶原の作品に対する並々ならぬ意欲が伝わってくる。

ジョー伝説を作った3人の人物

 ボクシングを題材とした純文学マンガを構想した担当編集者の宮原照夫。豊富な知識と自身の体験を盛り込み原作を執筆した梶原一騎。そしてもうひとり、魅力的なキャラクターで作品世界を昇華させたマンガ家のちばてつや。この3人の組み合わせなかりせば『あしたのジョー』の成功は決してあり得なかったであろう。
 この頃28歳にして数多くのヒット作を描いていたちばは、すでに「先生」と呼ばれる大家だった。過去に同じような年齢で作風が固まってしまい消えていったマンガ家を大勢知っていた宮原は、彼のさらなる飛躍への願いと確かな技術を見込んで梶原と組ませることを考えたと言う。交渉は難航したが、宮原の粘り強い説得に意気を感じたちばが原作の改編を条件に承諾。梶原もそれを許諾したことで黄金のコンビが誕生した。だが一部の関係者からは「水と油」と揶揄され、連載途中でコンビが決裂するだろうと噂されたが、多忙なふたりはできる限り直接会って打ち合わせを重ねることでピンチを回避していく。双方の解釈の違いから力石を大柄に描いたことが、壮絶な減量シーンへとつながったというエピソードは今でも語り草となっている。
 梶原が、矢吹丈、丹下段平、力石徹といったキャラクターたちが、常に激しくぶつかり合うような骨太で重厚なストーリ−を綴れば、ちばは、人間に対する温かな視点と細やかな人物造形で、彼らをより生き生きと描く。こうした“緊張と緩和”の見事なバランスを味わえることも『あしたのジョー』の魅力と言えるだろう。
 ここで、筆者から梶原とちばの全く異なる個性を、本作に登場するふたりのヒロイン・白木葉子と林紀子をとおして味わうという、マニアックな楽しみ方をオススメしたい。気高く誇り高き深窓の令嬢である葉子は、梶原の理想とする女性像であり、控えめで庶民的な下町の娘である紀子は、葉子の言動に共感できないちばがその反動として創造したキャラクターである。物語のなかで、葉子が丈を闘いの場に追いやるように振る舞えば、紀子が闘いに明け暮れる丈の気持ちが休まるようにやさしく振る舞う。両ヒロインの違いを、原作者とマンガ家の個性の違いと比較しながら読むことで、より深く『あしたのジョー』の作品世界を知ることができるのだ。(次号に続く)

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※1 正確には『週刊少年マガジン』誌上で連載を開始した1968年1月1日号は前年(67年)12月15日に発売されているので、50周年記念イヤーは昨年暮れにはすでに始まっている
※2 2018年4月28日〜5月6日まで、東京ソラマチ5F スペース634にて開催※3 2018年4月よりTBS、BS−TBSにて放送開始
※4 東邦出版刊・宇都宮滋一著『「ダメ!」と言われてメガヒット』より
※5 『ザ・ヒットMAGAZINE』1986年5月号より

【ミニコラム・その29】

るるるる〜♩に歌詞があった!
 尾藤イサオが歌うアニメ版主題歌にまつわる有名なエピソードに、歌詞を忘れてアドリブでごまかした「るるるる〜♩」が好評で採用された...というのがある。では本来作詞された部分はどういうものであったのだろうか?1番のソレには「夕日を見てると」、2番は「地平を見ていると」、3番は「街の灯見ていると」という歌詞が書かれていた。寺山修司によるその歌詞は実は現存しており、数年前に発売された音楽集CDの制作時に発掘されたが、諸般の事情で大きく広められることはなかった。

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