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花実さんに会いに行った話

 令和3年現在。これまで私がお会いしたことのある梶原先生の血縁関係者は六人です。実弟の故・真樹日佐夫先生、日佐志さん、奥様の篤子夫人、長男の城さん、次男の一誓さん、三男の故・誠樹さん。
 そしてもう1人、6年前の2015年にネット仲間三人と北茨城まで会いに行った長女・花実さんの話を。

2014年。SNSを通じてお知り合いになって間もない頃、光栄にもお誘いをいただいていたのですが日程の調整で翌年1月にようやく決行。当初はお酒を一緒に飲んで一泊して…という考えもあったのですが、同行メンバーと検討の末に日帰り超弾丸ツアー(電車往復約6時間、現地滞在時間約3時間)となったのです。

 待ち合わせの高萩駅で我々を出迎えてくれた緊張の初対面、過去に先生の著書や関連本の写真や過去のインタビュー映像で顔や声は一方的に聞いたことはあったけども、初めて見た生・花実さんの印象は…

物腰は凄く柔らかでいて、全身から発せられるコチラを包み込むような温かなオーラが凄い人。

何の予備知識もなく初めて人と会う場合、相手がどういう人かとか互いの距離間をつかむのに生じるぎこちなさは無意識におきてしまうものだが、そういう瞬間の隙間を一瞬に埋めてコチラの懐に(しかもごく自然に!)入り込まれてしまった印象を私は持ちました。以前に誠樹さんが語っていた姉分析(行動的で社交的)は正しかった!
そしてネット上でしか知らないどこの馬の骨かも分からない男三人(同行の友よ、暴言許されよ)に対して、さりげなく自然に対応してくれる懐の大きさに

『やはりこの女性は梶原一騎の血を引いているんだ!!』

と痛感した次第。

対面の挨拶もそこそこに、まずは花実さんが働いてるお店(上記画像)に車で移動することになりました。自家用車なので運転までしていただき恐縮至極の状態だったのですが、我々が乗り込んで開口一番。『すみませ〜ん。ソコ(私が座った後ろの席側の)窓が故障してて空きっぱなしでごめんなさいねー。』

おお!おおらかだ!小さいことは気にしないんだぁ!と訳の分からない感動を胸に抱きつつ、車は一路“しおかぜモール”へと向かうのでありました。

…と、大げさな前フリをしたが、しおかぜモール到着後から帰るまでの行動は特別記することはない。お店で少し談笑→昼食を食べに店に移動→帰りの電車までの時間調整に近場の海岸を見た。以上である。今回のメインは観光ではなく話をすること、この1点なのだ。だから、ひたすらアレコレとお話をし、聞かせていただきました。以下は、その中から“梶原一騎”に関連する話(エピソード)を時間軸を無視して私の記憶に残った状態で書かせていただきます。
※なおエピソードに関する年代は特定できないため、その当時だけのこともあれば、以降も続いたものもあることをお断りしておきます

1)煙草の話
 梶原先生は原作執筆の時に、よく火をつけた煙草を鼻にはさんだまま原稿を執筆されていたそうです。吸うというよりも煙をたしなむ方を好んでいたのでは?というのが花実さんの弁。右手で原稿書き、左手でラーメンをすするなんて多忙の頃ではいちいち指にはさんでなんて動作も煩わしかったのかなーと。

2)空き箱の話
 その日、学校の工作の授業で使う空き箱を用意するのを忘れて大慌ての花実さん。登校時間も迫り、家政婦さんも交えて家中で空き箱捜しが始まりました。騒ぎを聞きつけた梶原先生が事情を聞き「よし!まかせておけ!」と意気揚々と探してきたのは海外の高級なお酒の空き箱の数々。子供の眼にも「こういうのじゃない…」と困惑したとか。この時の先生の得意そうな顔とかリアクションに困った花実さんの顔とか想像すると微笑ましくなりますね。

3)TV出演の話
 “これは今だから話せるんだけど…”と、前置きをされて話してくれたエピソード。とある番組(減点パパかな?)に親子出演が決まり、番組サイドからお父さんへ宛てた作文を書くように依頼された花実さん。何とか書き終えスタッフに渡そうと準備する花実さんに梶原先生の一言。
「一度見せなさい」
劇画原作界の首領(ドン)の厳しい添削を入れられ完成した作文の内容は自分にはまったく覚えのないエピソードだらけだったそうです。“だって私が夏休み軽井沢でテニスしましたって(笑)行ったこともやったこともないのにねぇ…そういう自分の娘にイイトコのお嬢さん、みたいなイメージを出したかったのでしょうねぇ。(笑)”

4)“パパ”の謎
 この質問は自分が以前から気になっていたことでした。いわゆる昭和の頑固物・厳格な父親像を貫いた梶原先生ですが、子供達には自分のことを「パパ」と呼ばせていました。でも前記の先生のイメージから考えれば「お父さん」と呼ばせてこそだと思うのですが、と花実さんに聞いた所。“父には結構ミーハーな所もあるんですよ。そういう(上記エピソードの流れで)上流家庭のイメージを持ちたがっていたのではないでしょうか”とのこと。また先生は子供の学校のPTA役員をやってみたいという気持ちがあったそうです。長女〜次男までの4人が子供の頃は仕事で多忙とか他の事情で叶わなかったのですが、復縁後に末っ子の誠樹さんが生まれてから「この子が学校に行くようになったら、そこのPTAやりたいなぁ〜」と語っていたとか。

5)親子問答の話
 “13階段のマキ…て歌がありましたよね?”
 このエピソードは、昼食後に寄った海岸にて4人で海を眺めていた時にふいに思い出したように話してくれたものでした。出来たばかりの曲を聴いていると先生が突然「この♪どうせ この世は13階段 人はいつかは死んでゆく…って意味、お前に分かるか?」と聞いてきたそうです。小学校高学年にとっては、かなりハイブロウな問いかけにだったが、それも懸命に「13階段っていうのは死刑台の階段のことだから…人が生きるということは、死ぬということと同じだ…とか?」言った答えに一言。
「ふっ(笑)浅いなぁ…」
と言ったとか。“そんなの子供には難しすぎて分かる訳ないって話ですよねー(笑)”

以上。他にもあったかもしれませんが、また思い出した補足編としていつか改めて追加します。帰り際「今度は是非、泊まりがけで。ゆっくりお酒を飲みましょうね。」と約束して別れました。その約束を機会と時間と予算(笑)を準備して実行したいなぁ、とメンバー三人で誓いあったのでした。(完)

※注:店舗は現在日立市に移転して「Sakura Cafe」という店名で営業中。

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↑感激のツーショット!…ですが実際は別々の席で、画像を加工してそう見せてるだけです(汗)

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