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高座海軍工廠と台湾少年工

GoogleMapをうろうろしていたら、自宅からそう遠くないところに「台湾亭」という史跡があった。写真を見ると何やら中華風の建物。そのちかくに「台湾少年工慰霊碑」とある。
気になったので調べたらいろいろと発見があった。

高座海軍工廠

戦時中、相鉄線さがみ野駅の北に、広大な飛行機工場が建設された。さがみ野駅から現在の国道246号を超えて芹沢公園のあたりまで。大和市のサイトに解説があった。1943年に工事が始まり敷地30万坪、工員3万人、年間6,000機の生産能力を持つ工場として建設された。戦局の悪化で予定通りにはいかなかったようだが、戦闘機「雷電」を生産したとある。滑走路もある巨大な工場だったようだ。

このサイトに詳しい解説があった

芹沢公園

海軍工廠の広大な工場は大戦末期には当然、空襲のターゲットになった。そこで現在の芹沢公園の地下におおきな防空壕を掘り、工場機能を移そうとしたらしい。これは武蔵野の中島飛行機の工場を浅川の防空壕に移そうとしたのと同じ企てだ。
下記のサイトに詳しい解説と地図があった。Mapとリンクしていて面白い。

芹沢公園には今も壕がのこっており、その一つはなんとライトアップされて「雷電」の模型がおかれているらしい

高座海軍工廠と地下壕
 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と地下物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた壕もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて、当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

平成28年11月座間市教育委員会

台湾少年工

3万人もの工員を擁する工場を新規に作るといっても、当時の状況からして人員の確保が困難だったことは想像に難くない。そこで台湾から17〜19歳の少年を募集して送り込んだらしい。その数8,000名。40棟もの宿舎が建てられたらしい。
しかも、優秀な生徒を集めようとしたことからか、また工業高校?卒の資格も取れるということで待遇も良かったらしく、いわゆる強制徴用のようなものではなかったようだ。元工員たちにより記念の施設が1997年にたてられた。これが「台湾亭」ということらしい。


厚木空神社(深見神社)


小田急江ノ島線の反対側、深見神社。ここは終戦直後、厚木海軍基地内の神社(厚木空神社)に祀られていた戦死者名簿を密かに持ち出しここに移したらしい。


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