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“わがまま”がチャーミングになる日 越路吹雪の“ヒトタラシ力”

ある日書店で、少女向けの本に目がとまった。日本の時代を切り開いてきた女性たちを紹介するものである。女性の社会的な活躍の場が今よりもっともっと狭かった時代に、学問を続ける、医師になる、政党の代表になるなど、その“はじめの一歩”が無かったら今日の女の命は違っていただろうと思われる人物ばかりで、熱心に立ち読みをしてしまった。その中に今回の越路吹雪もいた。

 初めて名前を知ったのは、ベルばらブームにのって宝塚歌劇に夢中になり、歴代のスター年鑑を読みまくった時だ。当時のスターの舞台化粧は全く気にならないのに(小学校の同級生には下敷きに挟んだ写真を変な目で見られたが)、越路先輩の厚化粧は子供の目(私)にはどうにも慣れなかったのを覚えている。しかし数年前、複数の“越路吹雪物語”を続けて観ることがあり、彼女の“ヒトタラシ”力に涙し、ずっと気になっていた。“歌手”がふさわしいのかもしれないが、多くの舞台を演じている女優として迫っていきたい。

 関東大震災の翌年1924年、東京生まれ。今年は生誕100年だ。“小さな頃からおしゃれが大好き”というフレーズがどの紹介にもあり、ふと気づく。「子供の頃のおしゃれさんって、自分だけの感性で選ぶことだよな」って。世に“流行”なんてものがあることすら知らないし、他人の眼なんて気にしない。親に「それはおかしい」と言われても、それが許されないと自分が察知するまで、我が道を押し通す。そんなまま、彼女は大スターになり時代を開いたのではないかと思う。歌が大好きでも唱歌は歌わず、勉強は大嫌い。13歳で宝塚音楽学校に入るも、良家の努力家の中では劣等生。ファンがつくようになっても、劇団のムードに合わないと感じていた。そんな頃、宝塚在籍のまま帝劇に主演で立つというチャンスを掴む。女の園では“不良”に見えた部分が“色気”に転じて大成功。退団。渡航の自由なき時代にパリへ渡り、エディット・ピアフを観、無力を悟る。生涯、自分を一流にすることに専念し、日本で稼いではパリで散財する。

 素直に存在しているだけで、周囲をとりこにしていく“ヒトタラシ力”。子供時分には誰もが持っていたもの。汚れなきワガママなら、それは大事に。

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