夏の鴨川風情

 コロナ事情で今年の夏は大きく変わった。宵山もなければ、下鴨神社のみたらし祭もない。さらに、雨が長引き、いつ梅雨が開けるのか。いつもなら祇園祭の山鉾巡行を区切りに梅雨開け宣言となり、むっとした蒸し暑さが灼熱の日差しの8月に変わる。去年も梅雨明けが平年より遅く、みたらし祭でもどんよりと曇った中での足つけ行事だったが、8月は酷暑の日々となった。今年はどうなのか。8月になってやっと梅雨は開け、一気に暑い日々を迎えたのである。人の世がコロナ事情であろうが自然は変わらない。
 暑い日差しの中で久しぶりに鴨川沿いを散策した。数人でコロナの気晴らしを求めてウォーキングを企画した。まず御所内の森を歩き、史跡を辿りながら、梨木神社、廬山寺を経て、荒神橋に出る。御所内の史跡には平安朝にゆかりのある所も多く、京都の千年の歴史を想うことができる。例えば、藤原道長の豪邸、土御門邸址。ここでかの道長は「この世をばわが世ぞと思う望月の欠けたることをなしと思えば」と自らのサクセスストーリーに浸ったのである。その極みを尽くした豪邸も、今では木々の立つ草地と砂利道となった。また、母と子の森という丘の横に、染殿井がある。今は寂れた井戸だが、ここは藤原良房邸があったところで、平安朝の清和天皇の母(藤原良房の娘)が生まれたという。さらにこの地で清和天皇は息子の陽成天皇に譲位された。陽成天皇には奇行が目立ったとされる。恐らく当時は近親婚も多く、遺伝負因のある精神疾患も多く表出したのだろう。関白の基経があまりの奇行を見かねて光孝天皇に譲位させたという。それでも百人一首には「つくばねの峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」という陽成院の歌が残っている。奇行があっても知的に問題がなかったことを思えば、当時も自閉スペクトラム症があったかもしれないと、現代人の勝手な思いに耽る。
 梨木神社には京都三大名水の一つ、染井がある。御所内を歩いた後の一口はまたとても美味しい。その隣がかの有名な廬山寺で、紫式部がこの地で源氏物語を書いたという。ほんの一部を挙げたに過ぎないが、御所には10分ほど歩くだけで史跡が続々と出てくるのである。
さらに、御所内には森があり、千年以上の人の歴史の流れとともに自然の姿がある。何種類もの鳥のさえずりの聞かれる場所もある。そこではシジュウカラやメジロなどたくさんの野鳥がいて、時々人の肩などに止まる。さえずりとともに自分の身に止まる姿は実に愛おしい。野鳥のいる木立の隣に母と子の森と名付けられた丘がある。ここには自然に関する児童本が小さな小屋に据えられているが、手垢がついて紙も萎えた紙芝居も棚にひっそりと置かれている。ふと、紙芝居を手に取ってみると、半世紀以上も前の幼き頃、紙芝居のおじさんが近くの公園に来て様々なストーリを聞かせてくれたことを思い出した。おじさんに10円を渡すと、飴をくれた。そんな自らの幼少期を彷彿される時間に導かれた時、一人が木の台に紙芝居を置いて「はじまりー、はじまりー」と声をかけたのである。すぐに周りの人たちが集まり、拍手である。話はなんでもない虫の仲間の話。それでもその時、昔の紙芝居の面白さと舐めた飴の美味しさが頭をよぎった。
 御所を出て荒神橋である。橋の西岸にかつて喫茶店があった。病院勤務の頃に昼の食事でよく出かけていた。当時を思うとまだ20年も時間は経っていない。今では更地である。山の大文字と鴨川の景色を眺めながら、担当患者さんのことを話していた頃が懐かしい。鴨川西の河岸に降りた。すぐ目に入るのは、川の流れと遠方に見える山々である。遠くに比叡山を眺めながら、北山に向けて茂る両岸の森、大文字山を背にした河岸の並木、鴨川の流れる音、青葉の香り、肌に触れる風など、自然を五感する鴨川である。そこに川に置かれた飛び石で親子が戯れている。水に浸かって遊んでいる子や飛び石をぴょんぴょん渡っている子、石に座って魚を取ろうとしている子などがいる。しばらくすると耳に入るのは、管楽器の音である。曲なのか、音出しなのわからないような音であっても、なんかほっとする。鴨川という自然と人の協調した場所によって吸収されていくのである。
 河岸を下ると、芝生の広場がある。休日の午後はいつもここで大勢の学生が旗を振って声を出したり、チームを組んでダンスをしている光景を目にしていた。学生の姿にはその動きだけでなく、掛け声と笑顔によってバイタリティの湧き上がる力がある。今日は学生の元気な姿が見られず寂しい気がする。これがコロナ事情なのか。丸太町橋をくぐると、土の広場がある。ここでよく目にするのが、外国人を混じえたおじさんたちのペタンクをする光景である。ペタンクは鉄球を転がして当てて高得点を狙う競技である。わたしもプロバンスに行った時に、街の広場でよく目にした。こうしたプロバンス光景をコピー・ペーストして鴨川に持ってきた様子なのだ。ただ、ここにプロバンスといった異国情緒が出てくるのは頭の禿げたフランス人のような人がいつも加わっているからだろう。彼は鴨川の流れを横にしつつ鉄球を転がし本国を偲んでいる違いない。
 左前方の山に青蓮院門跡の将軍塚が見えると、川に飛び石の渡りがある。鴨川の飛び石で誰もが知っているのは、出町柳である。ここには大勢の観光客が来る。それ以外は意外に知られず、鴨川を親子やカップルで散策する人のちょっとしたひとときにいい場所である。飛び石を跨ぐには普段より少し体力と注意力を要する。しくじれば足を水に落としてしまうというリスクを気にしてしまう。でもこの状況は、自分の不安はあっても、一方では他者への思いやりの心もくすぶられる。川の途中で高年の女性が渡ろうとして戸惑っている様子を見て、居合わせた若手の男性が手を貸してくれている様子も目にする。一人では越えられないかなといった不安がよぎった際に、相方が手を差し出して支えてくれる。飛び石を渡り終え対岸についた時の二人の微笑みには、渡り終えたという達成感だけでなく、こうした思いやりの心の気づきもあるだろう。
 鴨川の東岸からは、川端通りを渡り、夷川沿いに進む。そこで目にするのがダムの放流である。蔦が絡み緑葉に覆われたダムの壁面から水が轟音をたてて飛び出てくる。ダムの壁面は鄙びた茶色のレンガ作りで、白色の水しぶきを含んだ水の流れが黒く淀んだ夷川に吸い込まれ、狭い川の両岸は桜の葉が生い茂る。緑と茶、白、青、黒といった色のバランスによって生まれた風流な景色は、スマホ写真に入れたくなる。ダムの前にはいつも金物を手細工で作っているおじさんがいる。彼はいつも気軽に声をかけてくれる。今日もみんなに話しかけてくれた。話によると、川の横には水道管が埋められていて、錆びてきたことから新しい管に変える工事が始まったらしい。そのために川岸にある桜並木がほとんど切られてしまうと言う。なんとも嘆かわしい。3月末の頃のあの素晴らしい桜がなくなるのだ。でも、工事後に新しい桜苗を植えるという。おじさんの口調には意外にも怒りではなく、新しい桜並木の訪れへの期待が感じられた。時の流れとともに待つことのできるこうしたおじさんこそコロナ事情に強い人かもしれない。
 夷川沿いを戻り、鴨川に再び出た。そして、北上して荒神橋を目指す。しばらくすると、子供の浮き輪が川をゆっくりと流れていく。河岸には誰もおらず、浮き輪を追う姿はない。かつては、川に流れる浮き輪を追って河岸に走る子供の姿をよく見た。今は、子供の浮き輪は千円もしない。流れてしまえば、敢えて手間をかけて追って手に戻すより、新しいものを買ったほうがましなのかもしれない。流れ行く浮き輪を見ながら、令和の時代の虚しさを思った。自分の最近の行動を振り返っても、「もったいない」という気持ちからの判断は減っている。特に、千円ほどの物品には、物への執着より買い替えへの期待のほうが勝ってしまう。こうした自分を思うと、流れ行く浮き輪はこのまま消えていくのか。かつての浮き輪を必死で追う親子の姿はもう見られないのだ。
 荒神橋を渡り、少し南下し日陰の椅子で休みをとった。そこでコンビニで先程買った弁当を食べる。この暑い日差しの中を歩き続け、コンビニに入った時の涼しさにはほっと快感を覚えた。汗を額に垂らし、背中もびしょ濡れとなった体が、すーと冷えていく感が気持ちいい。会計を終えて外に出るとまたコンクリート歩道では灼熱の暑さがびしびしと体を突き刺してきたのである。日陰の椅子でくつろぎを過ごしていると、ふうっと風が吹いてきた。この風が顔や首、手などに軽く触れる。なんとも心地良い。温度は決して低くはなく、むしろ生温かい。でも自然な風が体に当たることが優しく、柔らかく、自然と一体化した涼しさを覚えるのである。コンビニの涼しさとは質そのものが異なる。
 食後も川の流れを前にして日陰で過ごしていると、一人の女の子が浮き輪を抱えて川岸を川下から駆けていく。一所懸命走っている。あの浮き輪を取りに行ったのだ。川下の飛び石で過ごしていた人が浮き輪を拾い、取りに来る子を待っていたに違いない。その子が先程浮き輪を受け取りに行ったのだ。浮き輪はプラゴミとして流れ去ることはなかった。
 鴨川の夏の風情に、子供が浮き輪を取りに行く姿は残されていた。自然と人の協調した場所。それが鴨川なのである。

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