ハーダンガー刺繍

今から500年も昔のまだ16世紀。世界史では宗教改革の頃。北欧ノルウェーの南西部ハルダンゲルという土地で美しい透かし模様を持つクロスステッチが編み出された。
北の海に面し、雪と不毛の山々に囲われ寒風吹きすさぶ当時の荒れ地に、何故これほど繊細で静謐な美しさを湛えた刺繍が形作られていったのか。鎖されながらだからこそ想いは祈りのように豊かで、小さな家々の屋根を越え天上まで届き、ギフトとしてひとに降りてきたのかもしれない。慎ましく正しく、浄く深い世界を伴って。
時空を超えてこの日本へも継がれてきたその刺繍を、長年造り続けてきた友人の母が亡くなり、あとに彼女の作品が遺された。白一色の世界の静けさ。こころ濯われる細やかな一目一目の厳しさと穏やかさ。人柄そのままの結晶が僕らの前におかれてもう何年にもなる。
彼女は天上の雲の上、ぽかぽか陽当たりの良い場所に腰掛け、真綿の雲から紡いだ糸を使って、そろそろ新作の完成に向け余念の無い頃かもしれない。夢中になって日の暮れにふと手を止め、でももう夕飯の支度にかからなくてもよかったことに気付いて座り直し、いつまでたっても癖の抜けない自分に目を細めているのだろう。次のこの作品なら誰への贈り物に相応しいかしら、とあれこれ想い巡らしながら、針を運んでいることだろう。

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