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塩原高尾太夫と平塚らいてう


平塚らいてう
塩原高尾太夫

平塚らいてう(雷鳥)と云えば「原始 女性は太陽であった」で始まる女性同人誌「青鞜」の創刊者である。
1911年(明治44年)の創刊号は高らかに、良妻賢母的な国家や家制度の慣習に縛られず自我を解放して行く「新しい女」達を宣言した。

翌年夏から元号が変わり、いよいよ大正デモクラシー時代に入るその入り口の処である。1911年はもう一つ演劇界でも、主人公ノラが自我に目覚めて因習的な家や夫を捨てて旅立つと云うイプセンの「人形の家」が大評判を博した。そのノラ役の松井須磨子はこれがデビュー作となり大スター女優にのし上がった。

日本が日露戦争に勝利し国家意識だけは一等国の仲間入りをしたが、国民の意識としての人権や自由については欧米のような「文明国」にはまだまだ比肩し得ている筈はない。勢い知識人達の欧米最新思想の輸入や国内文筆活動も盛んになって、触発された若者や女性も参加していくようになった。大衆社会化は日本でも始まっていたのである。

平塚らいてう(平塚明 はると読む)は当時ではもちろん高学歴(東京高等女子師範附属高等女学校、現お茶大附属高から日本女子大、津田英学塾卒)で、家も裕福な上級官吏の娘であった。しかしやや風変わりな面があり、高等女学生の時にその良妻賢母教育に反発し指導を受けたり、日本女子大時代は哲学と禅に傾注し、特に禅は臨済宗の寺で禅問答修行に打ち込んで「見性」という高位の段階に至るほどであったらしい。

1907年に女子大卒業後、津田英学塾で英文学に興味を示し、同時に「閨秀文学会」という女子の文学好きが集まる研究会にも所属した。そこで夏目漱石の筆頭門下生を自認する講師の森田草平と知り合い、疑似恋愛のような関係になる。森田には妻があった。

らいてうの自伝によれば 「ある待合(逢い引き茶屋)で、橫になった森田が布団を敷いて『あなたも橫になりませんか』と言った時に『その要求を私にされても無駄です。私は女でも男でもない。それ以前のものですから』と拒絶した。」と云う事であったらしい。

にも拘らず、1908年3月に この森田草平と「塩原心中未遂事件」を起こす。
当時流行のイタリアの小説家の「死の勝利」に触発されたと言われているが、恋愛関係の無い2人が短刀とピストルを用意して、塩原から会津に向かう尾頭峠(現在は三依付近)の雪の山中を歩き回った。明(はる)は「月光に映し出された山々に大感動し何とも言いようの無い有頂天な幸福感に浸っていました。」と疲労困憊した森田が死ぬ意味を見出だせず懊悩しているのを後目に実行力の無い口だけの森田を見下げていたようである。

草平と自称するくらいだから、今なら「草食人間」といったところだろう。
22歳の明に対して草食ポチは27歳。あわれなものである。

家に残して来た明の遺書は公開されており、「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」と記されており、まるで哲学的自殺の遺書のようである。日光華厳の滝で飛び降り自殺した一高生藤村操の「厳頭の感」に似ていなくも無い。

恋愛無き心中未遂の2人が警察に保護されてから世間のスキャンダルとなった。森田に妻があったので不倫と報じられ、高学歴のお嬢様と云うことで有ること無いこと書きまくられ、明は日本女子大の同窓会員から除名された上、世間から嵐のようなバッシングを受けた。

森田は夏目漱石の家に転がり込み、漱石から心中自殺の動機を聞かれても「不可解な女だった」と云うばかりで、はっきり答えられなかった。漱石は「彼女はアンコンシャス ・ヒポクラット(無意識の偽善者、二重性)だな。自ら識らずして行動するからその行動に責任がない」と言ったという。漱石は翌年小説「三四郎」のヒロイン「美禰子」を意思非疎通で相互に現実的なコミニュケーションが取り難い特異性と神秘性をもつ性格の女として描いている。 草平は漱石からの勧めもあり、直後に事件を「煤烟」と云う小説仕立てにして発表したところ、「真相!」大当たりで、これが文壇レビューとなった。

「漱石も草平もこの程度か」と明はそのインチキさと底の浅さに呆れかつ辟易したろう。漱石は平塚家まで出向いて「この騒ぎ(スキャンダル)は本当に2人を結婚させれば収まる」と言ったらしい。両親から静かに退出を促されたようだ。漱石の人の好さが馬鹿馬鹿しいまで出ていて、却って親しみが持てるくらいだ。

明はその後2年近く信州辺りに引きこもり、雪山の雷鳥の姿に感動し「平塚らいてう」というペンネームをつかうようになる。そうして自立した強かさと自信を内面にしっかり根付かせて、いよいよ1911年6月の「青鞜」創刊の日に「新しい女」として登場することになる。

塩原高尾太夫の故郷塩原の雪山にこころが震える経験をした明だが、何故ここの地で死を受け入れると云う気持ちになったかは多分自分でも分からないだろう。

塩原太夫のたましいのようなものがあるとすれば、私は平塚明にその太夫のたましいが希求したものの具現を一寸感じる。鍵は 太夫の残した伊達綱宗への送り文と辞世の句である。

「忘れねばこそ 思い出さず候」
「君はいま 駒形あたり ほととぎす」
禅問答のような言葉の論理や表現の綾が私に伝わって来る…。

「 寒風に もろくも くつる 紅葉かな」
何回も読んでいると、作者が若いのに既に自分の死を第三者的に客観的に捉え直している強かさを感じる…。

塩原太夫が後生に生まれ変わるとすれば、やはり幼少時に赤貧では無く、自我をきちんと持って男からも自立した人間として懸命に努力する人生を選ぶだろう。塩原で別れた弟(絵師になった)ともまた邂逅したいだろう。
平塚らいてうの夫は5歳下の画家であったし、その結婚前の尾竹一枝(紅吉)との同性愛事件は一枝が甘え切るまんまる顔のまるで男の子のようだったと云うのも気になる。
何よりも「平塚家」は鎌倉時代の三浦一族を祖先とする。三浦屋と云う屋号は偶然の一致だろうが、塩原太夫と平塚らいてうに頭を占拠されてしまった私には暗示のように思えてならない…。

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