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銀座東洋物語。7(幸せと冒険)

 クーリエサービスで大枚の現金を送ろうとしたポール氏のことは、私が地下一階の電話交換室から異動になってから起こったの出来事だ。地下にいてはクセ強めの宿泊客とゲストの快適だけを追求したいホテルマンの攻防を近くで見ることはできなかった。

 テレフォンオペレータとして入社したのが、地下の電話交換室にはわずかの期間しかいなかった。当時転職を繰り返していたけれど、契約期間の途中でやめて帰ってきてしまったと言っても海外での経験は生活でも仕事でも生き残る術は身についていたためどの勤め先でもある程度結果を出していた。一度は海外エアラインの最終面接試験にものこった。その自負が邪魔をして電話交換に応募することには、相当な諦めと覚悟が必要だった。その辺りのことは早々に書いた。
 そうやって一大決心をして就いたポジションだったが、そういう時に限って本人の覚悟とは裏腹になるらしい。私の異動は面接を受けたときから進行していたらしく、仕事を始めて二ヶ月頃、慣れた様子の外線がかかってきた。相手はホテルの部署につないでくれとは言わず、私であることを確認した。
 「〇〇さんだよね、僕だよ。おぼえている?」

 想像してみてほしい。東京の銀座、一等地に立つホテル。そこにかかってきた電話である。従業員への連絡としても、軽すぎる。その声は40歳代以上の男性にしかない落ち着きがあり、名前を言ったのかもしれないけれど、正直なんと答えていいかわからないくらい動揺した。いまもかわらずそうなのだが、私は名前を一度で覚えることができない。威張っていても仕方ないから、あの手この手をつかって必死に覚える。おかげで大きな問題になったことはない。が、だれにでもそういう不得意分野があると思うが、そういうわけで他人の名前を覚えることはいつも要注意ポイントなのだ。このときも、もちろん、その不得意は発動していて直前に名乗られた名前を聞き落としていた。すると口籠もっている私を他所に、
 「僕は、総支配人と一緒に面接した地味な方だよ、」とおっしゃって電話をとおしても豪快とわかる声で高笑いした。

 「どうです?がんばっていますか? やめずにやっているんだね、よかった」
 そう親しげに話されたあと、近隣にあるグループの不動産部門に電話を繋ぐようにおっしゃった。

 あのときなぜもっと器用に気づいたふりをしなかったのか、何度も後悔した。しかし私が覚えていようがいまいが、その取締役は機嫌の良い声で要件をつげて、たった一度しか会ったことのない私を名前で呼び、仕事を始めたばかりの不安だった気持ちを明るくしてくれた。いまから思うと、できる大人のお手本に思えて仕方ない。仕事でできるというだけじゃなく、人としておそらく家庭人として、組織の上部にいる人間として、社会人としてもポリシーをお持ちだったのだろう。とにかく好印象を残した。あのころホテルが属していたグループ企業は多角的な進出を意欲的に進めていた。電話繋いだあと、氏のお名前をグループ機関紙で確認すると、合併した傾きかけた外食産業の代表に名前がのっていたけれど、その方の躍進はそこでとまることはなくしばらくグループの外郭で辣腕を振るった後、メインへとはいっていかれた。細かく追って行ったら、下町の宇宙産業を描いた小説のように、どろどろした企業ドラマから現代のドリームを描くサスセスストーリーが書けたかもしれないが、女の私には所詮どれも男という人間が作り出す蜃気楼のように思えた。
 ときどきお名前を確認して、失礼な対応をしたことを心の中でお詫びしながら応援した。その後、ホテルをとおして、さまざまなトップの方をお見かけする機会があったが、その皮切りがこの取締役だった。
 なんの後ろめたさもなく、公明正大で、明るい。こだわりがなく、ただ良いことと正しいことにだけ食指が動く、そんなふうで見ているこちらの未来まで明るくなる気がした。

 そんなことがあってすぐ、4月の異動で私はレセプションのフロアにあるセールス&リザベーションに異動になった。
 クリスマスのキャンドルをずらりとならべ極太のリボンで束ねた、そんな形のホテルビルは、一階二階が吹き抜けになっている。劇場入口の桜通りに面した花屋のガラス張りの店舗をとおりすぎると、蝋燭の足元に深く切り込んだエントランスになっている。
 その内側は優しいアイボリー色の空間がひろがり、2階のレセプションからのぞける張り出し窓になっている。こことエントランスからレセプションへの階段は、ホテル内のどこよりも、ホテルとしての神聖さを感じた。それはおそらく、他の場所は従業員にとって自分達のパフォーマンスの場所であるのに対して、このエリアだけは、ゲストの存在なしには成立しない空間だからだと思う。
 そのエントランスを半円状に周り、再び蝋燭の足元に出てきたところで、歩道は三角のケーキの太くなった角を回ることになる。そういえば、ショートケーキの形だとも教わったような気がする。そうしてケーキの台座の部分に小さな横長の窓がみえてくる。そこにセールス&リザベーションのオフィスがあった。

 わずか4畳ほどのその小さなオフィスには、窓を背にしたところに電話交換の機械が置かれていた。それは地下のテレフェンオペレーター室にあったものと同じで、地下の女性たちの勤務時間がおわるとその交換台で、ナイトマネージャーが電話を受けるのだった。
 ナイトマネージャーなる言葉は銀座東洋に入社するまで聞いたことがなかった。あの面接で総支配人が「stand at night in Wordorf」とおっしゃったとき、その意味さえ知らなかったが、伝説のN氏について知るにつれてホテル業界の面白さも一緒に知った。

 いまでこそ学びから職業までのルートは、一貫性があってそれをたどることで一応のキャリアが確立されるようになったが、はたしてそれは幸せなことなんだろうか。パンデミック、ウクライナ・ロシア戦争、異常気象を経験している今の時代、あの頃の私と同世代の若者にとって、今はどうやったら安定的に生きていけるか、それが重要なのかもしれない。ちょうど昭和一桁世代のわたしたちの父母が感じていた時代の変化と不安定感と似たものを感じているのかもしれない。
 それに比べ、私たちは幸せな時代に生きた。戦争なんていう行為は明らかな愚行だというのが世界統一の理解だったし、あのころ政治を動かすことができるのが一握りの人間だったのがその原因をつくっていたのも理解していた。そして一世代前の犠牲者たちを知っているから、そうならないための最善の努力をする覚悟ができていた。つまり経済を豊かにすることだった。
 もう進歩しかなく、戦後のような状態に悪化するなんてあり得ない。進化、開発、ばかなるほど繁栄することは、これまでのカルマを解消するためのバランスのとりかただったのかもしれないとさえ思う。

 私たちの時代にはまだ、冒険があった。トムソーヤーやガリバーや、ドリトル先生みたいなのじゃないが、人生はまだ冒険だらけで退屈を変える余白があった。ジェフリー・アーチャーの『カインとアベル』の時代ほどではないものの、海外へでて仕事するのもその冒険のひとつだ。
 ホテル業は、私も銀座東洋で働いて初めて知ったのだが、1940年代にすでに大学の講座として存在している。裕福な家の姉弟が通う大学としてしられているそこの卒業生たちのなんとポッシュなこと。上品かつ、みな同質の落ち着きを持っている。
 落ち着きこそ、ホテルマンの品格だ、とはだれの言葉だったか。業種によっては慌ててみせるのもジェスチャーとして必要なときもあるが、それと反対なのがホテルマンだ。プラスチックリーゼントのナイトマネージャーも、慌てることはなかった。
 いちど、山梨の避暑地で研修がおこなわれたことがあった。彼の堅牢なリーゼントはシャワーの後はみだれるのか、そのことが話題になり同室のスタッフが確認することになった。しかしユニットバスから出てきたときでさえも彼の前髪はオンデューティーのときと同じ状態だったそうだ。
 
 これは冗談としても、落ち着きはらったホテルマンほど頼りになるものない。私が東洋にいたころ、マネージャーたちのほとんどは同じ大学の同窓生で飄々としながら、スマートに仕事をこなしている姿がとても格好良かった。そしてそうやって私の知らない昔からホテルマンとしてのハウツーがちゃんと学問として引き継がれていることがすごいと思った。

 それだけこの仕事を一生の仕事に選ぶひとたちがいるということは、広がりがあるのだということを示している。世界は広く、個人はちいさい。だけど小さな世界からその世界特有の望遠鏡を通して眺める世界なら、もしかしたら思い切り羽を伸ばせるかもしれなあい。羽を伸ばし、自分の世代が作った新しい世界を飛び回れるかもしれない、そんな夢が、無謀だとしても持つことができた。
 『カインとアベル』の銃一本を抱えアフリカに乗り込みダイヤモンド鉱山の利権を奪い合ったギラギラしていた時代のことを考えることがある。あの頃と比べれば、現代は安全だ。しかし、安全は挑戦との引き換えになっていないか?そんなことを近頃考える。
 
 私が銀座東洋に就職したころはまだマニュアルがなかった時代だった。なにをやっても正解で、どうやったって咎められることはない。そんな中でゲストの満足だけが、唯一最優先されなければならなかった命題だった。そういう職業のなかで、人としてできる全てを駆使して出自である日本のサービスを提供しようと海外に出て行ったホテルマンたちは、ものすごく格好いいと思った。
 2011年3・11の東日本大震災のとき、職業は第一次産業至上主義的な話が上がったが、芸術やサービスの第三次産業が思いのほか重要なことも私たちは知ったはずだった。これだけ高度に進化してしまった人間社会が、もうあの煩雑ながらも生きるためにモラリティーをかかさなかった時代に戻らないためには、サービスやアートといった心の微やかな部分にはたらきかけるもの気を配りそれに価値もみとめれば違ってくるにちがいない。

 物じゃない、見えない何かに価値があることに気づく時代、それに気が付く時代が近づいているの気がする。

 

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