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銀座東洋物語。2(昭和60年代仕事探し)

「ご要望はお伺いしました。空き状況を確認いたしまして、折り返しお電話差し上げますので、恐れ入りますがお電話番号を頂戴できますか?」
 銀座東洋での仕事の始まりは、このやりとりだった。当時ホテルといえば、泊まる日を伝えれば即座に用意できるかどうか回答があり、ルームタイプの希望や人数、到着時間へとトントン拍子に話は進むものだったが、そうはいかないのがこのホテルの特徴だった。

 私はドイツの日本企業に一年半勤めたあと、契約半ばで帰国した。いまも鬱と正気の間をいったりきたりしているから、あのころからすでに考えすぎの癖がでていたのだろう。そんな風だったから、仕事をさがすときそれこそ将来を華々しく飾ってくれる出会いがあるか、自立して生きて行けるような長く勤められる仕事をさがすか、長い時間迷った。一度などは、派遣業がはじまったばかりのところで旅行業のアルバイトへでかけ、英語ができるのをいいことに国際会議のインバウンドの手配などをした。この仕事で傑作だったのが、ひと月ちかく働いてすっかり現場の人たちと仲良くなったが、そこは派遣されて行ったわけなので、最後に派遣元に終了の連絡に行ったら元新聞記者という社長に日暮里の雑居ビルの一室で、バイト代の一部を抜かれたことだ。まぁ、覚悟はしていたから傷つきはしなかったが、社長が凄みのある目つきで
 「おれにはその筋の知り合いもいるんだから、他言するなよ」と言ってきた。私の脳みそは蝶々より軽く、いつも夢だけ見ていたい。だからそんなこともすぐ忘れた。そしてこころに、派遣の仕事はあまりよろしくない、という印象だけが残った。

 いまはどうかわからないが、あのころ少し考える人間は、JapanTimesの月曜版で仕事を探した。外資系の方が給料もいいし、待遇はもちろん、外聞もいい。英語ができれば、たとえビギナーレベルでも、仕事中にブラッシュアップできたし、挑戦しない手はなかった。いろいろ仕事を探す方法はあったがJapan Timesはそのなかで一番キラキラしていた。これを買いに毎週月曜日に坂上の家から20分かけて駅まで歩いた。駅からの帰り道、バブル時代のOLたちがブランドのスカーフを首にまき、太いカーラーで仕上げた太巻きのような前髪を揺らしながら出勤する姿とすれ違うたび、自分が戻るのは家だということに敗北感はあったが、自分の将来は海原のように広がっているように思った。そんな錯覚があのころのエネルギーだった。

 結局二百通以上の応募の手紙を書いた。履歴書をResume(レジュメ)と呼んだおしゃれな航空会社からは健康診断の日程を指定されたが、直後に残った候補者たちとのディベートがきっかけで、おじゃんになった。議題は、出産休暇はどれくらい必要か。

 その航空会社はヨーロッパ路線だった。JALとかANAじゃない、アジアの航空会社に就職したスチュワーデスが、次のステップとして挑戦していた。仕事でもキャリアアップの試験でも百戦錬磨の彼女たちに勝てるはずもなかった。
 当時、女性も権利主張しようという気運はあった。旧態依然とした古い会社にはできなくても、勢いのある国際的な視野をもった会社なら女性の権利とかキャリアアップとか従業員の権利に支援的じゃなければならない。そういうことができない会社は、ダメな会社、古い会社とレッテルを貼って近づかない空気があった。だから事実上、こういうトピックを面接で使うというのは世界的リーディングカンパニーの自負の現れだったのだと思う。
 下調べをつくしサービス業の粋に躍り出ようと準備万端だった彼女たちは、二枚も三枚もうわてだった。
 「私は、今の時代、子供は本当の親に丁寧に育てられるのがかえって大事だと思います」
 この女性は日本の国内線でスチュワーデスをしていると廊下で言っていた。どこのなまりもないきちんとした英語で発言したが、今の時代、というところに正直、私は疑問がわいた。
(今は反対に、女性でも外に出て仕事をしようという風潮じゃないのかしら?)
 「私もそう思います。裕福な方たちはベビーシッターを上手に使ってご自分の時間を有効に使うのがトレンドですけど、私はそれには疑問がありますわ」
 軽いサマーウールのシャネルスーツに見える服装のこちらは、英語にすこしアジアのアクセントがある。サラサラのロングヘアが、面接会場のホテルスィートの空調にも揺れていた。
 「私は、できれば三歳までは子供と一緒にいたいですねぇ」
 気がついた時には、私はそう言っていた。

 仕事を探していたわけで、なにもスチュワーデスになりたかった訳ではなかった。試しに応募してみたら意外とスルスルと進んでこんなところまで来た。そんな感じだった。それなりに服装にも投資して、美容室に行って面接に備えた。でも彼女たちのような『本気』があったかというと、まようことなく『なかった』と兜をぬぐ。

 私が失言しても空気は凍らなかった。
 シャネルスーツは、私の発言をすくいとって、しずかに面接官にたずねた。
 「えっと、Birth Leave(出産休暇)は三ヶ月じゃなかったでしょうか?」
 事の流れを静観していた面接官がにわかに目を上げて近くにいたもう一人の試験官に確認させた。わずかな間があって、出産休暇は3ヶ月なのが確認され私のメランコリックで甘々の回答はその場でなかったかのようにあつかわれた。
 つまり私は何も知らずに、スチュワーデスたちのステップアップのための主戦場にのりこんでしまい、大きなトラップにハマってしまったわけだった。
 
 その後、日本にナショナルフラッグキャリア以外の航空会社の参入がつづいた。そのころから航空会社の組合とか、スチュワーデスの仕事の範囲とか、名称がフライトアテンダンツに変わったり、外野から見ても航空業界のサービス業の部分は大きく待遇が変化したみたいだった。それまでの女の子が自分の殻を破って人生を挑戦したいと思ったときに職業に選ばれてきたこの仕事に対する印象も変わり始めた潮目の時代だったと思う。このあと『スチュワーデス物語』がテレビ放映される時代がくる。

 私はというと、一度は最終面接まで行った蜃気楼のような経験を忘れられず、なんども応募の手紙を送った。お国はさまざま数十社に上る。ホテルのロビーに何百人と面接のために並ぶ一人になったり、『就航は先送りになったが、次回のチャンスには必ず呼ぶ』という文言を信じて数年間も手紙を保存していたりした。何百人と並んている時点で、もう内定者はここには来ていないだろうと察するべきだったし、『次のチャンス』は詭弁であって決してこないと理解できないほど世間知らずだったのだ。

 そうやってホテルのスィートでのインタビューだとか、外資系への英文の応募の手紙をかいたりとか、半ば夢のように非現実的な世界で遊ぶ就職活動をたのしみぼんやりと社会通念の輪郭を私は学んだ。そしてまだバブルが残る東京で自分にできる安定的な仕事はなにか考えた時、Japan Timesの月曜版に『銀座東洋』の求人広告がでた。

 

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