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7月18日

小説家と読者の関係は、共通理解のトスとパスを延々とし続けているようなものだと思う。奇想天外の程度ですら理解の壁を超えてはいけないし、想定外であっても「想定できる範囲内」でありながら、あえて選ばなかった想定できる範囲の中の展開を大真面目に繰り広げることで読者がやっと楽しめるのである。

SFかその手のジャンルを謳わず、突然地面が頭上にある設定で話を広げたら誰もついてこないし、あまりの状況にストーリーを楽しむような余裕はないだろう。それは、そもそも小説をなぜ読むかという点に大きく起因している(と思う)。わたしはSNSで『なぜ本を読むのか』とアンケートで問うたことがある。他人がどういう理由で本を読んでいるか知りたかったから。自分の、執拗なまでの本への執着がなんなのか知りたかったから。それはあまりに強すぎて、本を全ての創造主とだ言わんばかりに信じすぎている感じすらあった。そうでないことはわかっていたし、そんな自分が恐ろしかった。
まあ、私がどう感じていたかはよしとして、回答の方はというと、いろいろ用意した回答の中で『現実逃避』というのが一番多かった。

2015年に投稿したこのアンケートには今でもポツリポツリと訪れる人がいてコメントを残してくれている。今年の4月が一番最近の回答。それを見てみる。すると当初「現実逃避」はうっちゃり的な回答に思えたけれど、あながちそうでないことに気づいた。
本は、脳みそだけを別の世界へ誘ってくれるツールらしい。世界と言ってしまっては大袈裟かもしれないけれど、本は地下鉄の昇り階段や屋上のドアみたいに思考だけを別のレールの載せてくれる。現実逃避と呼ぶ時は、それを必要とする状況がつらくて離れたい時。そして現実から離れリフレッシュした後ちがった視座で戻ってゆく原動力になっている。

現実逃避、いいじゃないか。大賛成である。アンケートを貼った頃のわたくしだったら違ったが、今は大いにオッケーである。

あれ、小説が共通理解の域を出ない話をしようとしていたのに。まぁ続きは別の日に。

そのアンケートはこちら

SNSの性質か、穿った意見が面白い。宜しければさらに上塗りしてみては?

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