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原点【馬】

馬には助けられた。

本当の意味で助けられた。あれには絶対に魔法が潜んでいるに違いない。

私は非常に複雑な子供だった。四十年以上前、すでに登校拒否をしていたなんていったら、どんな子供だったかお分かりいただけるだろうか。拒否なんていう強い反抗じゃなく、行く理由が見つからなかったのだ。今なら義務教育で義務なのは親の方だって言えるけど、あの頃行きたくない自分にどこか故障があると思っていた。

故障はある。

まず皮が薄い。面の皮、神経の皮。くわえて生命力が異常に強い。自分はたぶん100歳まで生きるだろう。アイゲス、アイリブ、イーブンビヨンダット。強い生命力のまま心が長く生きると、もろもろ不都合な齟齬が生まれるので、私はその頃から正直に生きた。

もろもろ皮が薄いと、嘘をついてしらっとしていられない。方便を使うとその記憶がずっと付きまとい日常の生活を苛むのだ。だからそうやって生きるしかなかった。すると周りとの関係に齟齬が生まれた。理論的かつ道義的に正しく生きることが人生の命題だった私には学校は矛盾の塊だった。だからなのだとおもう。心じゃなくちゃんと物理的に存在する私の脳味噌のそこに宿る生命力が、私自身が理論で理解するより複雑な関与要素を巻き込み不都合と判断したのだと、今ならわかる。解っても複雑なのは変わらない。

人それぞれだと思うが、子供だからわからない、ってことはない。言葉が足らない、経験が少ない。そういうことが、自分のことをうまく説明できない理由になっているだけで、直面している状況も感情もちゃんとわかっていた。それが自分にどう関わるか想像できかかっただけだ。”いま”のことだけ、それは自分が不機嫌なことがわかった。そして不機嫌な理由は、理論的には何もなかった。

だから、それは生命力が判断したことなのだ。その根元へ近づけば、私は生きていたくなくなるのがわかっていた。だから遠ざかったんだけど、結局そうすることもこんどは道義的、理論的に私をいなくなりたくさせるだけだった。

にっちもさっちも行かなくなった私を、父が多摩川沿いの乗馬クラブに連れて行った。

あの頃、あの乗馬クラブには佐良直美さんが会員でいらした。入会した日は水曜の午後だったおもう。あの頃学校は水曜が家庭学習日だったから、きっとそうだ。本当は、休みだろうがなんだろうが家にこもって壁に頭を打ち付けていた私を父は鎌倉だの、多摩川の川縁だのへ連れ出した。その日はたまたま雨が降っていたから、高架下の雨に濡れな場所へというつもりだったのだろう。いつもと同じように家で不貞腐れていた私を誘い何も言わずにそこへ連れてきた。

大きな馬場が、多摩川河川敷から二車線の細い道を隔てた土塀の下に広がっていた。隣の高架下じゃない広い馬場の真ん中には真っ白の馬がたたずんでいた。その傍らいた相良さんは一際目立っていた。父は、クラブハウスから一番遠い馬場の柵の外に車を止めた。こうした外出ではあまり話に花が咲いたりしない。昔の話を遠い夢を語るみたいに明るく語るか、反対に静かに互いの呼吸の数を数えるか、どちらかだ。私たちは民家の一角に開いた小さな乾物屋の店先で温めた缶入りのデミタスコーヒーをすすりながら相良さんを見た。

芦毛の馬は大人しく、相良さんが馬装を整えている間スイッチを切った機械のようだった。ニッカボッカ姿のスタッフが馬の反対側に回ると、相良さんはグイと鎧革を引っ張った。それを合図にスタッフが反対側を引きバランスをとった。相良さんが右足で土をけりスッと馬上の人となると、ニッカボッカは長鞭を後ろ手に馬に見えないように隠しこちらへやってきた。相良さんは腹帯を器用に締める。それが終わると肩も袖も膨らんだ大振りのジャンパーを脱ぎ、長鞭と交換にそれをニッカボッカに渡した。静かにスイッチの入った芦毛が歩み出し、すぐに低く組んだ障害の方へと歩き出した。

阿吽の、何も言わないのに、誰もが何もかもわかっている世界。静かで、それでいて激しい馬の世界。その頃見た映画の影響もあった。憧れていたのを父はわかっていたのだろう。その日、私はビジターで初めて馬に乗った。観光牧場のではない本物の乗馬馬は、背中の筋肉がゴムまりのようにはりつめていた。約束事があって、馬たちは人間との協調を働こうと思っているのだけど、動物なりの強さが私を慌てさせた。その難問が、私にはとてもよかった。

父の青春時代は片足を戦争に突っ込んでいた。陸軍兵学校に入学したものの、幸い技術を試す機会は終戦のため来なかった。それでも大砲の下でもよく眠れる、というのが自慢だった。それに反して馬のことは何も話さなかった。しかしとても馬を愛していたのは推察できる。あんな煮詰まっていた私を黙って馬へ連れてきたんだから。馬事公苑で開催された大会にも一緒に行った。公苑入り口脇のショップで鞍型のバッグを買ってくれたのも父だった。

経済的に豊かではなかった。乗馬は不相応だったのだ。わかっていた。だから自分から行きたいとは言わなかった。でも父は、月に一回、あるいは二回、雨だれ式に連れて行ってくれた。それがどれだけ娘にとって薬になっているのかわかっていたのだろう。

いったん馬に跨がると、頼れるのは自分だけだった。動き出せばいよいよ自分だけ、自分の未来に立ち向かっている気がした。未来もそうだし、それほど先じゃない三秒先私の無作法で馬が立ち上がったり走り出したり、そういう波乱も自分の責任だった。

私にはそういうすぐにわかる直結した利害関係の方がわかりやすかった。動くものの上で、自分と戦うのはすごく意味あることに思えた。汗をかき、必死に考え、必死に我慢し、じっとし・・・それがとても私には価値のあることに思えた。そこに一緒に汗をかき、触れた内腿のズボンに湿度を伝えてくる存在は、愛想笑いしてくる同級生よりわかりやすかった。たんに私が子供だったのだけど、育つスピードは自分で決めたかった。

じっと我慢。その大切さを教えてくれたのが乗馬だった。あらがったり、説明を求めたり、そっぽを向いたり、改善しようと力づくになったり。そんなことは必要じゃなく、反対に素直な結論が降りてくるのを妨げる。ただ自分の体勢を整えて、次のとっさに備える。思いがけないどんな馬の動きも自分発の因果の結果で、馬のせいにしてはいけない。反対に馬はなんでもしてくれるんだと知った。なんでもしてくれる、そのために根回し準備、手続きが必要なだけだ。

中学時代、馬に乗ったこと。それが私の人生において私自身が舵をとると、決めることができた。その後も馬は何度も私を救ってくれた。逃げず、戦わず、正直に真っ直ぐな心で進むこと。理想は空虚な理想でなく、実現できる未来であること。感受性のある人なら、その事実はもっと具体的な方法を教えてくれるはずだ。

馬のそばにずっといたい、馬の仕事をしたいと早いうちから考えた。けれども運動神経に自信のなかった私にとって、選択肢は皆無に思えたし現実的じゃなかった。今の位置は決して馬に近いとは言えないが、馬に関わる人を応援できる場所ではある。直接馬に恩返しはできないけれど、頑張る人たちの応援はできる。またお菓子を作る。

今回は黒糖饅頭。

写真手前の一つに、馬の焼印を押した。

生クリームのために空けたスペースに饅頭一個は入れてもらえるだろうか。メリークリスマス。

どうぞみなさま、良いクリスマスを。来年はきっと良い年に、

しましょう!

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