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論語について

論語 冒頭部分の読み方も異説あり?

子曰く「学びて時に之を習う、また楽しからずや。朋有り遠方より来る、また楽しからずや。」
※朋有り遠方より来る の部分は「朋遠方より来(きた)る有り」と読む説もあります。個人的には「朋有り」のほうが中国語で読んだときに、すっきり調子よく読めるような感じがします。

孔子の生きた時代を反映していない
中学や高校で習った方も多いと思います。論語は孔子の言行録として纏められたと言われていますが、孔子の死後200年以上経てから、漢代にまとめられたので、「こういう風に孔子先生はおっしゃった(そうだ)」という、伝承を集めたと言っても良いでしょう。ですので、決して孔子が生きた時代をそのまま忠実に反映しているわけではありません。
編纂された漢代には漢代の人々の解釈があったはずです。

国家支配のために利用された論語
漢王朝が儒教を国教としたのは、道徳規範を「こうだ」と決めることで、
国家の安定を図ったといえるかもしれません。「あの偉大な孔子先生が言っていたそうだから正しいよね」ということで、長幼の序とかいろいろ決まっていくことになりました。以降、少なくとも清朝崩壊までの20世紀初頭まで論語の思想は社会の根幹を為す思想でした。そして多くの女性を苦しめたのも、女性を低く見る思想です。この影響は今なお日本にも残っています。
偉い先生の説に逆らわないのと同じですね。論語=孔子=神聖という構図を形成することで、国家支配を盤石にするために、儒教を国教にしたのです。
しかしながら、孔子の思想は周代の政治に戻すことでしたから、漢代とは合いません。論語は、孔子の弟子たちの意図とは異なった、使い方をされた可能性が高いのです。

論語はどう読むか
とはいっても、「人としてのあり方」などは男性、女性という性別関係なく、深く刺さる言葉が多いので、論語の中から「古いな、今の時代に合わないな(例、男女七歳にして席を同じうせず とか)」という部分は、読み飛ばせばいいだけです。封建思想の書物ですから、現代に合わない部分があるのが当たり前です。また、論語に現代を全て当てはめることもできません。

論語の解釈は自由である
論語には「~すべきだ」という言葉はありません。
冒頭の文章でさえ「朋がいて、遠方よりやってくる。また楽しいことではないか。」と「朋が遠方よりやってくることがある(そういう滅多にないことがある)、また楽しいことではないか」とわずかに訳は異なります。意味は何となく分かっても、実際に経験と重なって初めて、論語の意味は深みを増してきます。実体験と合わせて「論語の意味はこういうことか!」を理解した時に、あなた自身を成長させてくれている書物なのです。若いうちは文字面だけを追うかもしれません。ですが、社会経験を積む中で、論語の意味を理解できるようになってきます。論語が不朽の名著の1つに数えられるのは、そんなところにあるのかもしれません。

余談ですが「曰くつき」というのは、論語から出た言葉です。
曰くのあとに、説明が続くからです。「曰」は口を開いた形だと言われています。「曰く」は通常「いわく」ですが、敬意をこめて「のたまわく」と読むことがあります。

写真は中国 山海関の孟姜女(伝説として貞節な女性として有名)廟
の拓本(部分)。清朝同治年間(1865 慶応元年)の石碑。拓本が採られたのは大正元年(1912年)との記録が軸先に書かれている。

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