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程暁農★米中関係 — 50年毎に繰り返された揺り戻し 2021年6月12日


 ★1 50年毎に正反対になる中共の対外戦略

 最近、中共は「建党100周年」の準備をしており、中身は自画自賛だ。しかし、中共の対外戦略を見れば、別の視点が得られる。それはこの100年間の中共の対外戦略は対米敵視から対米接近、また対米敵視という閉ざされたループをほぼ繰り返してきたことだ。

 もし、中共の経済改革の方向が、国際経済に溶け込み、国際ルールを守り、国際社会に近い市場経済体制を目指して経済改革を行って、西側社会の先進国である米国と親密になることがだったとすれば、では今日、米国を敵視する立場に戻るのは時代に逆行するものだろうか?

 もし、中共はもともと民主主義と西側を敵視しており、100年後も必ず米国を敵視するのであれば、その100年間の間の数十年、米国に近づいて、成果を上げたという事実は、中共の成功なのか、失敗なのか?

 興味深いことに、中共とアメリカとの関係を測ると、その100年はちょうど2つの区分、すなわち50年に分けられる。1921年から1969年までの最初の50年は、中共が米国に敵対した50年近くの年月であり、1971年から2019年までの50年は、米国に接近した年月だ。そして、米・中冷戦に火をつけた2020年からは、また敵対する段階に戻ったのである。

 中国の国運は中共の対外戦略史の大転換の中で波打っているのだ。こうした大変化は2度起きており、その都度、180度転換した。この二つの50年を顧みれば、中共が米国を敵視した時期は中国人にとってツイてない時代であり、米国に近づいた時代は、中国人の生活がいささかは良くなった時代だった。

  今、米・中関係が再び敵対的な段階に入ったが、今後、中共は米国と親しかった過去のように戻る可能性があるのだろうか、といえば明らかにありそうにないことだ。

 中共のこの100年を二つにわけると、はっきりと互いに争っていることがわかる。

 中共は常に「前進し、一歩一歩勝利してきた」と強調してきたが、この矛盾した互いに否定する二つの50年は、「一貫して勝利してきた」ことを証明しているのだろうか? 

 さらに一歩進めてみれば、中共は早晩、反米になるのであれば、なぜずっと反米路線を貫かず、途中でUターンしたのか? もしUターンが中共の勝利だというのなら、今の米国に対する敵視への回帰は、方向を失った失敗ではないのか?

 中共の内外のプロパガンダは、この正当化できない戦略的方向性の矛盾を完全に覆い隠している。大多数の中国国民から欧米の中国専門家まで、誰もが中共の欺瞞的プロパガンダに騙されてしまったのである。

 ★⑵ なぜ「二つの50年」が起こったか?

 私は6月6日に、「共産党政権の生存不安」で、中共が建国60年を宣伝する際の、「二つの30年間」の矛盾を指摘した(未訳、あすにでも翻訳します)。中共が統治60周年記念の時に、「二つの30年」の相互矛盾があった。つまり革命と改革の対立だ。あの時、中共トップは「二つの30年を相互否定していはならない」と命令を下した。

 今は中共の建党100年だ。この100年の「二つの50年の相互否定」をあげておこう。あるいは、中共はまたしても「二つの50年を相互否定してはならない」とでも言うのだろうか?「二つの30年の相互否定」は10年以上前から中国で広まっているが、今後は「二つの50年の相互否定」についても同じことを言うのか?

 政治的な抑圧では、人々の思考を止めることはできず、二つの50年はどうして登場したのかを分析すると、問題の鍵が明らかになる。

 中共の最初の50年は、実は中共がソ連に依存してエサを得ようとして、奴隷のように仕えた必然的な結果だった。中共の二番目の50年は中共が「崛起」しようとしてソ連に挑戦しのだが、結局、ソ連の核の脅威の下で、行く道がなくなって米国側に投降したのだった。

 そして、今、また新たにアメリカを敵視しようと言うのは、愚かにもオオカミを懐にいれたアメリカに対して、変わらぬ本性を表して、また「崛起」を謀ろうと、挑戦を開始したのである。

 米国敵視から米国に擦り寄ったからと言って、別に中共は「悪を悔い改め、正義に立ち返った」とかではなかった。親米政策から米国敵視政策に変わったと言うのは、中共の悪しき伝統の再現だ。中共の100年の歴史の二つの50年の違いは、親ソから親アメリカに変わり、また親アメリカから反アメリカにかわったことではっきりと中共統治集団のキホ的な特性が明らかだ。

 つまりいつも外国の各種の支援によって大きくなろうとして、大きくなったら、支援者の手に噛み付く、と言うことだ。

 このような中共の特性のために、当時のソ連は大きな損失を被った。米・ソ冷戦の重荷を背負ったソ連は、中・ソ冷戦の巨大な重荷を背負わなければならず、これらの軍備負担がやがてソ連を押しつぶしたと言えるだろう。

 昨年12月26日に「2度も「赤いトラ」国家を育てた米国の失敗  2020年12月26日」(美国两次养壮红色老虎的历史教训)を書いた。そこでは、「米国は2度もトラを肥え太らせた。2度も共産独裁政権を強大にしてしまい、最後は冷戦状態になった。一度の失敗なら、愚かで粗忽だったと言えるが、2度も失敗したというのは考えものだ」と書いた。

 ★中共の親ソ反米手のひら返し

 中共は初期の頃、幹部の訓練をソ連に頼り、外貨をソ連に養ってもらった。1931年11月7日、中共は歴史上の農民反乱を真似て、井崗山(江西省井岡山市)に山城を築いて、「中華ソビエト共和国」を名乗った。「ソビエト」と言う言葉は「Советский」に由来し、もともとは英語で協議会や会議を意味していたが、のちにソ連の国名となって、「ソビエト学」となった。

 井崗山の農民兵は簡単な漢字も読めなかったので、「ソビエト」が何かわかるわけもなかった。中共は井崗山の岩に「武装革命、ソビエトを守れ」と彫りつけたが、自分たちが生き延びるのもやっとの、山のアジトで、「ソビエトを守れ」もないものだ。

 これは中共が援助くれるソ連への忠誠心を示したものであった。こうしなければソ連からの外貨が得られなかったのだ。中共の始まりが、そもそも外国勢力に雇われた反乱団体からスタートしたということだ。

 抗日戦争が終わってから国民党軍が中共軍に敗れたのは、ソ連が共産党軍に与えた100万個の関東軍の武器・装備に加え、ソ連がヨーロッパから大連に輸送した旧ドイツ軍の大砲装備によって軍事的に敗れたのである。

 同時に、当時の中国にいたアメリカの外交官の中には、中共を助け、国民党政府と国民党軍を封じ込め、国民党軍への軍事援助を打ち切った親共産主義者がいた。

 その結果、国民党と共産党の軍事力が逆転し、済南戦、淮海戦の時点ですでに中共の大砲火力は国民党よりも強く、国民党はついに敗北した。

 中国はソビエト陣営の筋金入りのメンバーであったが、スターリンの死後、毛沢東はスターリンに代わって国際共産主義陣営の精神的指導者になることを目論んだ。

 そのため、毛沢東は1958年に経済の「大躍進」を打ち出し、この「近道」を利用して、自分の「大衆運動」が経済的奇跡を起こし、中国の経済力を急成長させることができることを証明し、毛沢東のやり方がソ連よりも優れていることを示し、資本を増強してソ連に「挑戦」したいと考えていた。

 しかし、毛沢東の「大躍進」「英国に追いつき、米国を超える」「共産主義に走る」という政策は完全に失敗し、3,000万人の農民が餓死するという悲惨な結果となった。

 1960年6月20日から25日までブカレストで開催されたルーマニア労働者党第3回大会で、フルシチョフは中国共産党代表団に対して、「あなた方は大躍進を遂げたが、人民は履くズボンもなく、死ぬほど貧しいじゃないか」とバカにされてしまった。

 毛はソ連によこっつらを張られて、自分が国際共産主義運動のリーダーになろうとする野望は2年で水の泡になったと感じて、恥から怒りへとなってソ連に反旗を翻し、中ソ蜜月は終わり、不倶戴天の敵同士になったのだ。

 「大躍進」は連続3年の大飢饉をもたらしたが、毛沢東は数千万の農民が死んでも、資源を巨大な原子爆弾とミサイルの研究につぎ込んだ。この二つに、膨大な金を使い果たし、軍事輸入に必要な外貨と引き換えに大量の農産物を輸出したが、その代償として農民の餓死者が増えたのである。

 毛沢東が反ソビエトの道を歩んだため、中共は国際共産主義運動の中でほとんど「一匹狼」になってしまった。 各国の支持者を獲得するために、毛沢東は費用を惜しまなかった。

  1961年と1962年の対外援助は13.7億元で、それまでの3年間の対外援助費と合わせて、5年間で23.6億元となった。その内訳は、アルバニア、北朝鮮、ベトナム、キューバ、モンゴルなどへの18.7億元、アジアやアフリカのその他の国への5億元であった。

  アメリカに対抗し続け、旧毛沢東の「世界革命」を遂行するために、鄧小平はさらに200億元の経済援助を使って、1963年にベトナム共産党を支援するよう命じられた。

 当時は大躍進の影響で3,000万人が餓死し、国中が飢餓と栄養失調に陥っていた。200億元は、中国の年間国民所得の5分の1、財政収入の6割に相当する。

 ★対ソ戦準備から中・ソ戦争開戦まで

 中共はソ連と敵対後に、国力を挙げて「対ソ戦準備」を始めた。共産党軍事科学アカデミーが2013年に発表した資料によると、1964年に共産党の戦略的仮説がアメリカからソ連に変わり、共産党軍の戦略的任務もアメリカを標的とするものから、主にソ連を防御するものに変わって、北部国境に大量の部隊を送り込んだ。東北から華北、西北の「三北」地域に大量の軍事基地、陣地を構築し、作戦計画を立てた。

 1964年以前のソ連は、西から東まで1万キロに及ぶ中ソ(中モンゴル含む)国境にわずか10個師団を配置し、各師団が平均1000キロの国境警備を担当していた。

  これは象徴的な駐屯地だったが、中国軍が北に集中した後、ソ連も中ソ国境の駐屯地を次々と増やし、54師団、100万人以上の兵力を投入した。

 毛はついにソ連を武器で攻撃することを決意し、1969年初めに黒竜江省のダマンスキー島の国境地帯で綿密に計画された攻撃を組織し、3月1日の夜に無防備なソ連軍を待ち伏せ、70人以上のソ連軍パトロール隊を完全消滅させた。

 その後、多くの戦闘が発生し、ソ連側はこの部門で人民解放軍によって152人の死傷者を出したと発表。これは、第二次世界大戦以来最大の死傷者だ。

 当時、ソ連の最高司令部は、中国への報復と中国の脅威を完全に無力化するために、数メガトンの核弾頭を搭載した極東の中距離弾道ミサイルを使用して、中国の多数の重要な軍事的・政治的目標に対して「外科的核攻撃」を行う準備をしていた。

 このような核攻撃の第一目標は、政治と軍事の司令部である北京であり、もし核攻撃が始まれば、中南海はもちろん、北京も消滅してしまっただろう。

 1960年以前、ソ連が極東に配置していた中距離・準中距離弾道ミサイルは約70基に過ぎなかったが、1965年以降、トランスバイカル軍事地帯に対中核ミサイル基地を設置したり、モンゴルに対中ミサイル基地を多数設置するなど、ソ連の極東におけるミサイル兵器は着実に強化されていった。

 当時、ソ連は4万発の核弾頭とそれを運搬する1000発以上の大陸間ミサイルを保有していたが、中国は当時、長距離ミサイルを持たず、1969年から1970年にかけて北東部と北西部に50発の中距離ミサイルを配備しただけで、核弾頭の数は非常に少なかった。

もし、1969年にソ連が核弾頭を搭載した長距離ミサイルを使用したり、爆撃機から核爆弾を投下したりしていたら、当時の中国はソ連のミサイルを迎撃することが全くできなかった(中国の戦略ミサイル早期警戒レーダーが開発されたのは1970年).毛は反撃の手段を持たず、やられるしかなかったのだ。

 唯一の解決策は、洞窟に隠れてソ連が地上攻撃を仕掛けてくるのを待ち、人海戦術で奮闘することだったが、そのために人民解放軍の総兵力は631万人に増加した。 世界最大の共産主義国である2つの国が殺戮の準備を整え、絶滅の危機に直面したのが中国であった。

 ★米・中接近は中共の生存の道だった

 今では、中共は「米・中国交回復」は毛沢東の偉大な選択だったなどと言っているが、実は毛沢東の緊急避難だった。

 1969年は、ソ連の核攻撃によって世界大戦の勃発が迫っていた年だが、毛沢東は破局が迫っていることを知らず、4月に北京で「第九回大会」を開催していた。アメリカがソ連の核攻撃計画を公表したことで、初めてパニックに陥り、生き延びるための準備を始めたのである。

 陸軍は94万人、空軍は4,000機以上の航空機、海軍は6,000隻以上の船を避難させ、都市部では数万人が緊急の戦争準備に入り、大・中都市では防空訓練が行われ、防空要塞が大規模に建設された。

 大量の幹部が五七幹部学校に下放され、北京の大部分の高等教育施設が地方に移転させられた。国民経済は戦時体制に移行し、多くの企業が軍需生産に移行し、大量の工場が交通の遮断された山間部や第三線に移転していった。 当時の中国は、戦時に近い緊張感の中で暮らしていたのだ。

 1969年8月20日、ソ連の駐米大使は、ワシントンにいたキッシンジャー国務長官と緊急にアポイントを取り、ソ連が中国への核攻撃を準備していることを伝えるように指示された。

 ソ連の判断は、当時、米中はベトナムで戦争中であり、ソ連が北京当局を攻撃しても米国は介入しないだろうというものだった。

 しかし、ニクソン大統領は、西側諸国にとって最大の脅威はソ連であり、ソ連の中国への核攻撃と核汚染は、アジアに駐留する25万人のアメリカ軍の安全を脅かすものであるとみなした。

 最終的にホワイトハウスは、アメリカが反対している限り、ソ連は安易に核兵器を使用することはないと判断し、中国にソ連の意図を伝えようとした。1969年8月28日付の「ワシントンスター」紙は、「ソ連は中国への外科的核攻撃を望んでいる」という記事を大きく掲載し、「信頼できる情報によると、ソ連は中距離の核攻撃を行いたいと考えている」と伝えた。

 「数メガトン級の核弾頭を搭載した弾道ミサイルで、中国の重要な軍事拠点である九分、西昌の発射基地、ロプノール核実験基地、そして北京、長春、鞍山などの重要な工業都市に対して外科手術的核攻撃を行う」というものだった。

 米国のこうした態度に、ソ連は、中国を攻撃した場合に米国がなんらかの動きにでる懸念を抱いたが、北京当局に核攻撃を加える決意には変わりがなかった。

 1969年9月16日、ロンドンのサタデー・メール紙は、KGB報道官ビクター・ルイスの記事を掲載し、「ソ連は新疆のロプノールにある中国の基地に空爆を行うかもしれない」と述べた。

 これはアメリカにとっては、再度の試練だった。ニクソン大統領は、「目前に迫ったこの中・ソ戦争を止めるべきだ。それでも、どうしても戦いたいというのであれば、それは連中がきめるべきことだ」とした。

 米国はソ連が解読できる暗号を故意に使って、米国がソ連の134都市、軍事拠点、交通の要衝、重工業基地に核攻撃を発動する指令をだした。

 そして、10月15日、米国はソ連の駐米大使に、中国がソ連の核攻撃を受ければ、第三次世界大戦の始まりとみなし、ソ連を核攻撃すると伝え、ソ連の中距離ミサイルが1発発射されれば、米国はソ連を核攻撃すると伝えた。

 ソ連は北京当局の核攻撃計画を断念するしかなく、アメリカは毛沢東を救った。毛は、朝鮮戦争と、当時まだエスカレートしていたベトナムの2つの戦争をアメリカと戦っていたのに、そのアメリカがなんと救いの手を差し伸べるとは全く予想していなかった。

  ★6 中米接近から、対米敵視へ

 米国の救助の手に対して、毛沢東は恩返しをしようなどとは考えなかったが、それでも利害関係の計算はできた。ソ連が中国共産党への核攻撃を一時的に停止したとはいえ、北京当局に対する軍事的脅威は依然として存在し、その圧力は絶大なものだった。この時も、その後も、米中関係を改善し、対米接近によってのみ、中共は安全になる。

 かくて、毛沢東は長年叫び続けてきた「世界の人民は団結して米国の帝国主義を打ち負かそう!」というスローガンをしまいこみ、米中関係は改善され、ニクソンは中国を訪問したのだった。

 北京と上海のラジオ局は英語を教え始め、米国は突然、共産党の大敵から、中共生存のために依存するようになったのである。これは、中・米敵対関係が始まって50年を機に歴史的転換を遂げた根本的な理由であり、中・米接近は、中共が危険に直面しても生き延びるための戦略に他ならない。

 1971年以降、中国とアメリカが徐々に和解していったのは、中共が過去にアメリカに反対したことが間違っていたと認めたわけでも、過去にソ連に従ったことが間違っていたと認めたわけでもない。

 中共は自分たちの間違いを決して認めないが、生存に必要とあらば現実的利益から対外戦略方針を変えることはできる。

 現在、我々は、中共が「崛起」のチャンスを見て取って、再び、冷戦に火をつけて、米国の手に噛み付く姿をみることができる。

 中共には、「絶対変わらない頑固さ」と「時代とともに歩む」という両面性がある。1971年の敵対から接近への変化は「時代とともに進化する」で、2020年に点火された中・米冷戦は米・中の相互敵視関係に戻る「絶対変わらない頑固さ」なのだ。

 中共の「時代とともに歩む」姿は、実は生き延びるのに必要だというだけの話であって、これはその「絶対変わらない頑固さ」という本質を変えるものではない。これが中共の歴史と未来を見るカギなのである。(終わり)

从中美关系的两个五十年看中共的反噬特点
2021-06-12

一、中共对外战略的两个五十年彼此否定

最近中共准备纪念建党一百周年,自然是一番自我歌颂。但是,如果从中共的对外战略来看,可以发现另一个视角,那就是,中共这一百年的对外战略几乎走了一个闭环,从敌视美国到亲近美国,再从亲近美国回到敌视美国。如果说,中共的经济改革方向是靠近国际社会的市场经济制度,因此融入国际经济、遵守国际规则、亲近西方社会的领头国家美国,是自然而然的事,那么今天重回敌视美国的立场,不就是开倒车吗?如果说,中共本来就敌视民主、敌视西方大国,因此百年后必然还是敌视美国,那么,其百年当中有几十年却亲近美国,甚至以此为成就,这表明中共的成功还是失败?

有趣的是,如果按中共和美国的关系来衡量,中共这一百年正好可以分成两段,即两个五十年。第一个五十年,从1921年到1969年,是中共敌视美国的将近五十年;第二个五十年,从1971年到2019年,是中共亲近美国的年代,仍然是将近五十年;然后,从2020年开始,中共点燃中美冷战之后,中美关系又重新进入中共敌视美国的阶段。中国的国运就在中共对外战略的历史大转折当中颠簸起伏。这样的历史大转折一共发生了两次,每次都是180度大翻转。回顾这两个五十年,我们会发现,中共敌视美国的时期,就是中国人倒楣的年代;中共亲近美国的时期,则是中国人生活有所改善的年代。现在中美关系又进入敌视阶段了,今后中国的局势还可能回到过去中共亲近美国的那个年代吗,显然不可能了。把中共这一百年分成两段之后,很明显可以看出前后两个五十年相互打架。中共总是强调,它一路走来,永远是“高歌猛进,步步胜利”,那么,这两个相互矛盾、彼此否定的五十年,证明中共是“一贯胜利”,还是反复自我打脸?进一步看,既然中共早晚都要反美,为何不一路反到底,而要中途调头呢?如果调头改成亲近美国是中共的方向性胜利,那么现在重回敌视美国的对外战略,不就是方向性失败吗?中共的内外宣传把这种难以自圆其说的战略方向之矛盾完全掩盖起来了,以致于从绝大多数中国民众到西方的中国问题专家,都被中共的欺骗性宣传所忽悠。

二、为什么会出现这两个五十年?
我在《大纪元》网站今年6月6日的文章《共产党政权的生存焦虑》指出,中共宣传建政六十年时,我指出过其中两个三十年的相互矛盾,即革命与改革的对立;中共高层后来下令,“两个三十年不许相互否定”。现在我提出了中共建党一百年里两个五十年相互否定,或许中共会再发一道命令,“两个五十年不许相互否定”?我关于“两个三十年相互否定”的话,十几年来一直在国内传播;今后,关于“两个五十年相互否定”的看法,会不会也同样如此呢?

政治高压无法阻挡人们的思考,而分析为什么会出现两个五十年,则是问题的关键所在。中共的第一个五十年,其实是中共依赖苏联豢养壮大的必然结果,属于奴才报效主子之举;中共的第二个五十年,是中共为图谋“崛起”而挑战苏联,结果在苏联核威胁之下走投无路之时投靠了美国;至于最近重新开始敌视美国,则是中共这头被美国“东郭先生”收养的“狼”重现顽冥本性,再图“崛起”,开始挑战美国,以摆脱发展的困境。从敌视美国转变成亲近美国,并不意味着中共改邪归正;从亲近美国再转变成敌视美国,是中共的恶习再现。贯穿中共这一百年历史的两个五十年之区别,以及从亲苏到近美、再到反美的战略大转折,展示出中共统治集团的一个基本特性,它总是依靠外国的各种支援图谋壮大,而壮大之后必然反咬喂它的手。

由于中共的这种特性,苏联当年吃了夺命大亏;可以说,苏联在美苏冷战的沉重负担下,又不得不背上中苏冷战的巨大负担,这些军备负担最终压垮了苏联。去年12月26日我在《大纪元》网站上的文章《美国两次养壮红色老虎的历史教训》曾经指出:“美国两次养虎为患,两次把共产党极权政权培养壮大,最后两次被迫进入冷战状态。犯一次错,可以算是美国的愚蠢和大意;同样的重大错误原封不动地再犯第二回,就值得深思了。”

三、中共从亲苏反美到反苏翻脸

中共早年靠苏共培养干部,同时靠苏共拿外汇来养。1931年11月7日中共仿效历史上的农民叛乱,在井冈山建山寨,自称“中华苏维埃共和国”。“苏维埃”这几个字来自俄文的Советский,原意就是英文的council(咨议会)或conference(会议)。“苏维埃”后来成为苏联的国名用词之一,也是西方“苏联学(Sovietology)”的来由。当年那些湘赣地区目不识丁的农民士兵汉字尚且不识几个,哪里懂“苏维埃”是什么。中共曾在井冈山的山石上刻有口号,“武装革命,保卫苏联”。一个土匪山寨自保都难,何以保卫苏联?中共的这种态度无非是向出钱资助的苏联表示效忠而已,非如此换不来苏联给的外汇。由此可见,中共起家时无非是一个外国势力雇佣的叛乱团体。

抗战结束后国军不是败在共军的旧枪和人海战术之下,而是军事上败在苏联送给共军的一百万关东军的武器装备,加上苏联从欧洲运到大连的原德军的炮兵装备;同时,当年美国的在华外交官当中有一些亲共人士,他们帮助中共,遏制国民政府和国军,终止了对国军的军事援助。于是国共双方的军事实力发生了逆转,济南战役和淮海战役时共军的炮兵火力已强于国军,最后国军战败了。这场战败是苏联军事干预的结果。

中国曾经是苏联阵营的铁杆成员,但斯大林死后毛泽东开始盘算如何在国际共运阵营中取斯大林而代之,变成各国共产党的精神领袖。为此,1958年老毛发动了经济上的“大跃进”,希望用这种“捷径”证明他的“群众运动”能创造出经济奇迹,让中国的经济实力快速增强,显示出毛式道路优于苏联,增加他向苏联“叫板”的本钱。但老毛的“大跃进”、“赶英超美”、“跑步进入共产主义”政策彻底失败,造成饿死3千万农民的惨剧。苏联对老毛的政策十分轻蔑,1960年6月20日至25日在布加勒斯特召开的罗马尼亚工人党第3次代表大会上,赫鲁晓夫对中共代表团说:你们搞大跃进,可是人民没有裤子穿,穷得要命。老毛认为,苏联打了他的脸,自己的国际共运领袖美梦做了没两年就泡汤了,因此恼羞成怒,开始和苏联翻脸,中苏蜜月就此破局,几成死敌。

虽然“大跃进”导致连续三年的全国范围严重饥馑,但毛泽东宁可听任数千万农民饿死,也要集中资源推动耗资巨大的原子弹和导弹研制;为了“两弹”所需,当局耗用了大量黄金储备,也出口了大量农产品来换取军工进口所需要的外汇,代价是更多农民饿毙。

因为老毛走上了反苏道路,中共在国际共运中几乎成了“孤家寡人”。老毛为了在各国拉拢支持者,不惜血本,1961年和1962年对外援助达13.7亿元,连同前3年的外援支出,5年总计23.6亿,其中援助阿尔巴尼亚、朝鲜、越南、古巴、蒙古等国共18.7亿,援助亚非其他国家5亿。为了继续反美,贯彻老毛的“世界革命”,1963年邓小平又奉命用200亿经济援助支持越共发动越南战争。当时大跃进重创国力,3千万人饿死不久,全国老少面黄饥瘦、营养不良,这200亿相当于中国一年国民收入的五分之一、财政收入的60%。

四、从备战反苏到中苏开打

中苏翻脸后,中国走上了倾国力“备战反苏”的道路。共军军事科学院2013年出版的《战略学》提到,从1964年开始中共的战略假想敌从美国改为苏联,共军的战略任务由过去针对美国转为主要防范苏联。大批部队陆续往北调动,并在从东北到华北、西北的“三北”地区大量建立营地、构筑阵地,并制定了作战计划。1964年之前苏联在从西到东1万公里的中苏(包括中蒙)边界地段仅驻军10个师,平均每个师负责1千公里长的边界安全,这是象征性驻军;而中国军队集中北方之后,苏联也陆续将中苏边界驻军增加到54个师,达100多万人。

老毛最后决定武装攻击苏联,于1969年初在黑龙江省的珍宝岛边界地区组织了精心策划的对苏联的主动攻击,3月1日夜间把没有防备的苏军引诱进埋伏圈,全歼70余名苏军巡逻队;以后又发生多次战斗,苏军公布,先后在这个地段被解放军击毙、击伤152人,这是苏军二战后最惨重的伤亡。

当时苏军高层为了报复中国,也一劳永逸地解除中国威胁,准备动用远东地区的中程弹道导弹,携带几百万吨当量级的核弹头,对中国的多处军事、政治等重要目标实施“外科手术式的核打击”。这种核打击的首要目标是北京这个政治军事指挥中枢,如果核打击一旦开始,中南海乃至北京城就灰飞烟灭了。

1960年以前苏联在远东布置的中程和准中程弹道导弹只有70枚左右,但1965年以后苏联在远东的导弹武器不断加强,外贝加尔军区建立了针对中国的核导弹基地,在蒙古也建立了许多针对中国的导弹基地。当时苏联拥有核弹头4万枚,可运载核弹头的洲际导弹超过1千枚;而中国那时没有远程导弹,1969年到1970年在东北、西北部署的中程导弹仅50枚,核弹头数量很少。

若苏联1969年用带核弹头的远程导弹或用轰炸机投放核炸弹,当时中国完全无法拦截苏联导弹(中国的战略导弹预警雷达1970年才开始研制),因此老毛没有还手之力,只能挨打。老毛唯一的办法就是钻山洞躲起来,等苏军发动地面进攻时用人海战术硬拼,为此解放军的总人数增加到631万人。世界上最大的两个共产党国家随时准备大开杀戒,而面临灭顶之灾的是中国。


五、中美亲近是中共临危求活之举

现在中共把中美建交说成是老毛的伟大抉择,其实那是老毛的临危求活。1969年苏联的核攻击带来的世界大战即将爆发,但老毛并不知道大难临头,4月还在北京召开了“九大”。直到美国披露了苏联的核打击计划,中共才慌了手脚,开始做求存求活的安排。当时中共领导人多数被疏散到外省各地,重要档案被秘密运往西南地区存放;军队共疏散94万人,空军疏散了4千多架飞机,海军疏散了6千余艘舰艇;成千上万的城市人口进入紧急战备行动中,各大中城市紧急举行防空演习,大规模修筑防空工事;大批干部下放到“五七干校”,北京的大部分高等院校都下放地方或迁往外地;国民经济转入战时状态,许多企业转向军工生产,大批工厂迁往交通闭塞的山区、三线。当时中国就生活在这种准战争的紧张气氛中。

1969年8月20日苏联驻美大使奉命在华盛顿紧急约见基辛格,通报了苏联准备对中国实施核打击的意图。苏联的判断是,当时中美正在越南打仗,如果苏联动手打北京当局,美国可能不会干预。但尼克松却认为,西方国家的最大威胁来自苏联,苏联对中国核打击,核污染会威胁驻亚洲25万美军的安全。最后白宫判断,只要美国反对,苏联就不敢轻易动用核武器,同时要设法将苏联意图通知中国。1969年8月28日《华盛顿明星报》在醒目位置刊登一则消息,用《苏联欲对中国做外科手术式核打击》作为标题,作了如下报道,“据可靠消息,苏联欲动用中程弹道导弹,携带几百万吨当量的核弹头,对中国的重要军事基地——酒泉、西昌发射基地、罗布泊核试验基地,以及北京、长春、鞍山等重要工业城市进行外科手术式的核打击。”

美国如此表态后,苏共虽然担心,袭击中国时美国可能会采取动作,但核打击北京当局的决心未变。1969年9月16日伦敦《星期六邮报》登载克格勃新闻代言人维克多·路易斯的文章,表示“苏联可能会对中国新疆罗布泊基地进行空中袭击”。这是对美国的再度试探。尼克松认为:“对眼前这场中苏一触即发的战争,应当阻止。如果他们执意要打,那是他们的事。”美国为此用已被苏联破译的密码,发出美国准备对苏联134个城市、军事要点、交通枢纽、重工业基地发动核打击的指令。10月15日美国通知苏联驻美大使,如果中国遭到苏联的核打击,美国将认为是第三次世界大战的开始,因此会核打击苏联;一旦苏联有1枚中程导弹离开发射架,美国的报复计划便告开始。苏联只能放弃了核攻击北京当局的计划,美国拯救了老毛。老毛完全没想到,他在朝鲜和越南与美国打了两场战争,越南战争当时还在不断升级,居然大难临头时美国会出手相救。

六、从中美亲近到中美翻脸

面对美国的救命之举,老毛虽不是知恩图报之人,但毕竟还懂得盘算利害关系。苏联虽然暂时不再核攻击中共,但对北京当局的军事威胁依然存在,而且压力巨大;此时此刻乃至今后,只有改善中美关系,亲近美国,才能继续保住中共政权的平安。就这样,老毛把“全世界人民团结起来,打倒美帝国主义”这个喊了多年的口号揣到兜里,中美关系改善了,尼克松访问了中国,北京和上海的广播电台开始教授英语,美国突然之间从中共的大敌变成了中共存活的依靠。这就是中美敌对关系第一个50年之际发生历史大转折的根本原因,中美亲近,不过是中共临危求活的策略。

从1971年开始,中美逐步亲近,但这并不意味着中共承认自己过去反美错了,也不意味着它承认过去追随苏联错了。中共从来不认错,但为了生存需要,它可能会从现实利益需要出发而改变对外战略方针。现在我们看到,中共觉得有“崛起”的机会了,就再度咬喂它的美国之手,点燃了中美冷战。

中共的两面性在于,它既顽冥不化,也“与时俱进”。1971年中美关系从敌视变成亲近,可以算是“与时俱进”;而2020年点燃中美冷战、重新回到中美敌视的双边关系,就是典型的顽冥不化。中共的“与时俱进”,其实不过是求活图存的需要,这不会改变它顽冥不化的本质。这是看清中共史和中共未来的钥匙。

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