程暁農★2度も「赤いトラ」国家を育てた米国の失敗  2020年12月26日

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共産主義大国の民主恐怖症と全世界征服の目的は、最終的には冷戦を招いたのだが、それは共産主義大国と米国のライバル関係の必然性が原因となっている。しかしながら、ではなぜ米・ソ冷戦が起こったのは第二次大戦後で、大戦前ではなかったのか? 米・中冷戦はなぜ2020年にではなく、2020年に起きたのか? 

 原因は冷戦を起こすに必要な軍事的な実力にある。第二次世界大戦以前のソ連の軍事的実力と毛沢東時代の中共のそれは、どちらも米国と全面的に対決するには不足していた。現代史において、相次いでソ連と中共という二つの共産主義のトラを養いそだてたのは、まさに米国なのだ。そして、最後に巨大な国力を使って、この共産トラの脅威に対応せざるをえなくなったのは、米国が未だに反省できないでいる大変イタい歴史の教訓なのである。

 ★① 西側大国の援助がなければ、共産大国は脅威にならなかった

 ソ連も中共もどちらも工業化の遅れた大国で20世紀に生まれた。共産党は都市暴動から政権を奪取したのだが、これは遅れた国家でしか起こり得なかった。なぜなら、工業化の遅れた国家では、農民がより重要だったから、共産党は貧困農民を動員して赤軍(紅軍)を作った。兵隊の供給源を得てから、今度は武器を獲得する方法を考え、政権奪取への道を開いたのだ。

 工業化の比較的進んだ国々では、労働者の比重の方が高く、国民の教養の程度や市民としての素質も少しは上だったから、そう簡単に共産党の武装革命への扇動に載せられなかった。マルクス主義者はずっと、労働者階級が資本主義制度を覆すと言い張ってきたが、その望みは虚しかった。というのは、労働者階級は別に暴力革命が好きだというわけではなかったので、工業化された国々では吸引力がなかったのだ。

 この歴史の法則は、共産党政権は最初は、脆すぎて本来、西側の大国、とりわけ米国に挑戦する力などなかったことを示している。

 1944年6月30日に国務省に送られた電報の中で、モスクワのハリマン米大使はスターリンとの会話に言及し、「スターリンは戦前、戦時中のソ連産業への米国の援助を賞賛した。 彼は、ソ連の大規模産業の約3分の2は、米国の援助や技術支援によって建設された」「ソ連の工業技術の残る1/3は、ドイツ、フランス、イギリス、スウェーデン、イタリア、デンマーク、フィンランド、チェコスロバキア、そして日本の力を借りて作られた」と言及している。

 1973年、スタンフォード大学フーバー研究所の戦争・革命・平和研究者であるアントニー・C・サットンは、『国家の自殺:ソ連への軍事援助』という本を出版した。そこで、前世紀にボリシェビキが政権を掌握した時から、ソ連の軍産システムがどのように構築されてきたかを分析し、「現代のソ連の軍産・官僚システムはすべて欧米、特に米国に起源を持つ」と結論づけている。

 ★② 無一文のソ連はどのようにして近代的な軍事産業を築き上げたのか。

 ロシアにおける赤の政権樹立の初期、1927 年 7 月、V.オシンスキーという上級戦略担当者は、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」に「もし、我らの未来が戦争の中にあってロシアの農民が大八車で欧米の自動車に対抗しなければならないとなれば、軽くいったところでわが方は壊滅的な損失となる。これは技術的劣位にある必然的な結果である。決して工業化時代の国防とは言えない」と書いている。つまり、当時、ロシアは自動車も作れず、すべて輸入に頼っていたのだった。

 ソ連の軍用車両や戦車の製造技術は、1930年代にアメリカの援助を大きく受けた。 アメリカのフォード社は、1930年にソ連のために年産14万台の大型ゴーリキー自動車工場を設計し、設備一式と図面を提供し、アメリカの技術者の指導の下に設置して稼働させた。

 ソビエトはまず西側の工場で軍用車両を生産し、その後、西側の装備をコピーして新たな工場を開設し、ソビエトの軍用車両のほぼ95%はこの方法で作られた。

 1950年代に入ると、ソ連はそれまでアメリカからソ連に提供されていた技術を利用して中国の自動車工場の設立を支援した。1930年のアメリカの図面を参考にして吉芳4トントラックや越津2.5トントラックのデザイン形状をコピーしたものが残っている。

 1929年から1933年にかけて、アメリカとドイツは、レニングラード、スターリングラード、ハリコフ、チェリャビンスクなどの大型トラックトラクター製造工場の建設にも協力した。しかし、1932年後半、米国ミルウォーキーの石油機械会社の技術者イングラム・カルフーンは、ハリコフ工場が1日8〜10輌の戦車生産を開始し、戦車生産がトラクター生産よりも優先されていることを米国政府に報告。

「彼らは観光客に隠すことができるが、外国人技術者を騙すことはできない」と書きました。しかし、アメリカ政府は気にもかけなかった。

 米国は、1936 年から 1940 年までは、航空ガソリン製造用の石油化学分解装置をソビエト連邦に供給し、第2次バクー・連合企業の精錬所を全て、ソビエト連邦のために建設したほか、戦車鋼板を加工するための当時最先端の圧延工場を建設し、軍用シームレス鋼管工場の設備一式も供給した。モスクワ近郊の航空機製造工場。 前記技術・設備支援は、アメリカのCosmic Petroleum Products社、Bajer社、Lammers社、Petroleum Engineering社、Arco Products社、Mackey社、Kellogg社、Volty社が行った。

 別の例として、銃弾や砲弾を遠くまで発射するためには、炭酸カリウムを精製できる化学プラントが必要であり、ソ連には1960年までそのような技術がなかった。炭酸カリウムは、高品質の軍用火薬や濃厚肥料の混合物を作るのに使われ、1963年には、米ソ冷戦に突入したリプスコム下院議員は、炭酸カリウムの精製技術や設備をソ連に輸出することに反対した。しかし、米商務省の輸出検査局は炭酸カリウム肥料を「平和商品」とみなし、結局、ピッツバーグのジョエル・マニュファクチャリング・カンパニーは、1000万ドル相当の炭酸カリウム精製装置をソ連に輸出することを許可された。

 ★③ 「赤いトラ」支援へのルーズさ

 ソ連共産党の西洋技術導入戦略の実施は、四つの段階があった。第一に、軍事産業の発展の基礎となる重工業の各分野の基礎的な加工技術と設備の購入、第二に、これを模倣してソ連の軍事生産体制に拡大すること、第三に、これらの加工技術を新種の兵器の生産に利用すること、第四に、これらの兵器を米国およびその同盟国や第三国に対して利用することだ。

 米・中国交樹立後、中国共産党はアメリカの技術や設備を導入する際、同じように4つの段階を経た。まず、ソ連から輸入した長らく陳腐化していた西洋の技術を更新し、第二に、新しい西洋の技術を使って軍産体制を改造して隙間を埋め、第三に、改造された軍産体制に頼って新しい兵器をコピーし、最後に、これらの「力を誇示する」ために利用しつつ、アメリカの敵対国に輸出したものだ。

 ソ連の工業の基礎は、主に1930年代に米国から輸入された工業技術と科学知識だった。ルーズベルト大統領は1930年代にソ連との協定に署名したが、共産党が民間技術を軍事開発に転用するという約束を何度も破っていたにもかかわらず、米国の援助は衰えることなく継続した。その後、ヒトラーがソ連を攻撃し、第2次世界大戦でソ連が米国の同盟国となると、米国の対ソ援助が再開され、大量の直接戦用品だけでなく、大量の産業用機器や技術も提供されるようになった。

 当時の米・ソ協定でははっきりと、米国援助のうち3分の2は、戦後の再建に使用されると記されていた。つまり、戦争用の軍事物資は3分の2で、戦後の工業システムの強化技術設備が3分の1あったのだった。

 第2次世界大戦終了後、ソ連への戦時物資の援助を続ける必要はなかったが、1945年10月、アメリカはソ連との間で「パイプライン」と呼ばれるあまり知られていない協定に調印した。この協定の下で、米国はソビエトに数千台の特殊工作機械などを送った。すべて軍需産業で使用できるもので、1945年から1946年当時の米国の最先端物資であり、当時のソビエトよりもはるかに進んだものだった。この支援は米・ソ冷戦がはっきりと形をとった1947年末まで続けられた。

 その後もソ連は常に戦術を変えて米国の技術を獲得し続けたが、米国政府は制限を加えようとはしなかった。

ギルマークの「ソ連空軍」(1962)によれば、ソ連は、巧みに貿易を利用して、西側の不注意を利用して、先進的な技術設計、設備、生産過程を獲得しつづけた。航空機、エンジン、コンプレッサー、プロペラ、航法機器、航空兵器の合法的な購入、技術・性能データの取得、設計・製造・試験・方法の知識、工作機械、治具、金型、半製品、重要な原材料を調達。さらに特許を購入し、軍用機とエンジンの現代化に役立てた。同時に、一部の科学者と技術者に西側の最善のテクニカルスクールで学ばせた。また貿易代表団を派遣し、外国工場に視察、実習生を送り込み、外国からソ連の工場の顧問として技術者を招いた」とある。

 このように無防備で、アメリカ企業はソ連にあらゆる高度な技術を供給することに何の抵抗もしなかった。 1980年代以降の中国とアメリカの間でも同じような事態が起きた。 こうして「赤いトラ」たちはアメリカに養育されたのである。

 ★④ 技術獲得のもう一つの道 留学生ルート

 米国国務省は、冷戦期には米・ソ間、1980年代からは米・中間で留学生交換プログラムを実施していた。 このようなプログラムは、一見無害に見えるが、実際には「赤いトラ」たちが米国の科学技術知識にアクセスするための重要なパイプであり、共産政権に明らかな軍事的利益をもたらした。

 1965年から1967年の間に、162人のアメリカ人がソ連に留学し、178人のソ連人が米国留学したが、専門分野は全く違っていた。 米国務省の1964年7〜12月の交換プログラム報告書には、「例年通り、ほとんどのソビエトの学生は物理学と技術・技能の科目を学んでいた。
 
 アメリカの学生は主に人文科学、社会学、言語学を専攻していた」のだ。ソ連は、アメリカの工業技術の果実を収穫し、軍需産業で使用するために、留学生をアメリカに送り込でいた。

 実際には、米国と共産国政権の間には本当の交流は存在し得なかった。中・ソ両国は米国のハイテク領域の大学システムや実験室を自国の学生や研究者に開放し、米国のハイテクを自国の冷戦パワーに役立てることを願っていた。

 しかし、中・ソ両国とも、米国の技術者が自国の軍事研究機関を訪れることは許さなかった。両国の共産政権からみれば米国の技術者はみなスパイであった。そして、中・ソ両国の技術スパイが米国の実験室を自由に往来できたのに、米国はそれを学術交流だとみなしていたのだった。

 中国共産党は、アメリカの学術的開放性を利用して、中国の学者にアメリカの科学技術知識や特許、実験サンプルなどを大量に盗ませ、それどころか生粋のアメリカ人に「銃を持ったまま投降してくるように」と「人材発掘」をおこなうなど、合法非合法的な様々な手段を利用してきた。

 このような技術スパイ活動は1990年代から始まり、オバマ大統領時代には「「海外ハイレベル人材招致・千人計画」が徐々に拡大していった。アメリカの大学の多くは、トランプ政権が学術的な開放性を理由に共産国の技術スパイを防ぐための措置をとったことに、今でも反対している。

 ★⑤ 2度もトラを育てて患いとした米国

 アメリカは二度もトラを問題視し、二度も全体主義的な共産主義体制を育て強化し、最後には二度も冷戦状態に追い込まれた。 ミスも一度ならばアメリカの愚かさと不注意と考えることができる。が、同じ大きなミスをそっくり2度繰り返したとなると、これは一考の余地がある。

 今日、ソ連という赤いトラを育てた話の重点は、第二次大戦における対ソ武器輸出の話ではなく、それ以前と、大戦後の対ソ技術支援にある。

 米国のソ連への「給餌」はボリシェビキが政権が確立した直後から始まった。第2次世界大戦後には米・ソ冷戦が勃発したが、その後も米国は一時的にソ連への技術協力を継続していた。ソ連の冷戦時の戦力は、アメリカに養われていたとも言える。

 米国は「ソ連給餌」失敗後、ニクソン大統領は、対ソ技術統制を若干強化し、レーガン大統領時代にはソ連への「給餌」はほぼ終った。しかし、ニクソン大統領は「ロシアの赤いトラ」への扉を閉めたが、もう一つの「中国の紅トラ」を抱き抱上げてしまった。

 1970年代後半以降、アメリカは中国共産党に門戸を開き、今年、トランプ大統領が扉を閉ざすまでが「給餌」の第2段階だった。

 アメリカがソビエト共産党に「給餌」を始めたのは1920年代から冷戦が始まるまでの20年、冷戦開始から扉を閉めるまで20年以上あった。米国は教訓を学んだろうか? いや、米国はをソ連のトラから、中国のトラに変えただけだった。

 米国はソ連共産党に「給餌」していた時間は半世紀近い。1920年から1960年代末までだ。その間、共和党の大統領も民主党の大統領もいたが、どちらも「給餌政策」を続けたのだ。

 中共の紅のトラにへの給餌は、この40年。1980年から今年までで、決めたのは共和党のブッシュ大統領父子、民主党のクリントン、オバマ大統領だ。依然として両政党とも「給餌」政策をとってきた。

 そして、ソ連共産党と中国共産党に、「給餌」をやめさせたのは俳優出身のレーガンでありビジネスマン出身のトランプであった。

 一旦、米国がトラ給餌をやめたら、紅色トラたちの米国に対する脅威はどんどん小さくなる。彼らが、自分たちの力で軍備拡張を行うのは、意あって力足らずであり、最後には自然に冷戦の敗者側になってしまうのだ。(終わり)

程晓农:美国两次养壮红色老虎的历史教训
2020-12-26

共产党大国的民主恐惧症和全球征服目标终将导致冷战,这是红色大国与美国必然对抗的制度原因。然而,为什么美苏冷战发生在二战之后,而不是二战之前?为什么中美冷战发生在2020年,而不是2000年?原因在于,发起冷战需要军事实力,而二战前苏联的军事实力和毛时代中共的军事实力都不足以与美国全面对抗。现代史上先后养壮苏联和中共这两头红色老虎的就是美国;最后美国不得不花费巨大的国力来应对红色老虎的冷战威胁,这是美国至今尚未反思的惨痛历史教训。

一、没有西方大国的援助,红色大国构不成威胁

上个世纪中苏两个红色政权都是在工业落后的大国建立起来的。共产党走城市暴动或内战的道路来夺取政权,只会发生在落后国家,因为在工业落后的国家,农民比重大,共产党有机会发动贫困的农民参加红军,有了兵源,再设法获得武器,就可能夺取政权。而在工业化程度比较高的国家,工人阶级比重大,国民的文化程度和公民素养好一些,不容易被共产党的武装革命煽动起来。马克思的一些追随者主张依靠工人阶级来推翻资本主义制度,这个愿望总是落空,因为工人阶级并不喜欢暴力革命,暴力革命在工业化国家没有吸引力。这个历史规律说明,共产党政权从一开始就十分脆弱,它本来并不具备挑战西方大国、特别是美国的实力。

1944年6月30日美国驻莫斯科大使哈里曼在给国务院的电报中提到他同斯大林的一次谈话:“斯大林赞扬战前和战争期间美国对苏联工业的援助。他说,苏联所有大工业中,约有三分之二是在美国的帮助下或技术援助下建成的。”苏联另外那三分之一的工业技术则是在德国、法国、英国、瑞典、意大利、丹麦、芬兰、捷克斯洛伐克和日本的帮助下建成的。

1973年斯坦福大学“胡佛战争、革命与和平研究所”的研究员Antony C. Sutton出版了一本书,书名是National Suicide: Military Aid to the Soviet Union(《国家自杀——对苏联的军事援助》。他分析了苏联的军工体系从上世纪布尔什维克夺得政权后是如何建立起来的,其结论是,“苏联所有现代化军用和民用系统均来源于西方”,特别是来自美国。

二、一穷二白的苏联如何建立起现代军事工业?

早在俄国的红色政权建立之初,1927年7月一位高级计划人员V.奥辛斯基在苏共喉舌《真理报》发表文章说:“如果我们在未来战争中,用俄国农民的大车去对付美国和欧洲的汽车,那么,说得轻些,其结果将意味着我们的惨重损失,这种损失是技术上处于软弱地位的必然结果。这决不是工业化的国防。”当时俄国连汽车都不会造,所用汽车全靠进口。

苏联的军用车辆和坦克制造技术基本上是上世纪30年代美国援助的。美国的福特汽车公司1930年为苏联设计了年产14万辆的高尔基大型汽车制造厂,提供全套设备和图纸,再在美国工程师的指导下安装投产。苏联先用西方援建的工厂生产军用车辆,然后再仿造西方的设备,开设新的工厂,几乎95%的苏联军用车辆就是这样制造的。上世纪50年代苏联援助中国建立汽车厂,所用技术仍然是以前美国提供给苏联的,解放牌4吨卡车和跃进牌2吨半卡车的设计外形仍然照搬1930年的美国图纸。

从1929年到1933年,美国和德国还先后帮苏联建造了多个大型履带式拖拉机制造厂,包括列宁格勒厂、斯大林格勒厂、哈尔科夫厂、车里雅宾斯克厂。苏联引进这些技术设备时,说是要造农用拖拉机,实际上这些工厂投产后都在生产坦克。1932年底美国密尔沃基市石油机械公司的工程师英格拉姆·卡尔霍恩向美国政府报告说,哈尔科夫厂已开始每天生产8至10辆坦克,坦克生产优先于拖拉机生产,“……他们可以瞒过旅游者,但却欺骗不了外国工程师。”但是,美国政府并不介意。

从1936年一直到1940年,美国为苏联提供了制造航空汽油的石油化工裂化装置,还为苏联建设了第二巴库联合企业的所有炼油厂;同时为苏联建造了当时最现代化的加工坦克钢板的轧钢厂,也提供了军工用无缝钢管厂的全套设备;在航空工业领域,在莫斯科附近为苏联建造了一座大型飞机制造厂。提供上述技术和设备援助的是美国的宇宙石油产品公司、巴杰尔公司、拉默斯公司、石油工程公司、阿尔科产品公司、麦基公司、凯洛格公司和沃尔蒂公司等。

再举一例,枪弹和炮弹要发射得远,就必须有能提炼碳酸钾的化工厂,而苏联直到1960年还没有这样的技术。碳酸钾既可用来制造高质量军用火药,也可用来制造浓缩混合化肥,1963年,美苏冷战已开始多年了,美国国会议员利普斯科姆反对向苏联出口碳酸钾提炼技术和设备,但美国商务部出口检查办公室认为,碳酸钾化肥是“和平商品”。最后匹兹堡的乔埃制造公司获准向苏联出口了价值1千万美元的提炼碳酸钾的设备。

三、对红色老虎技术支援不设防


苏共引进西方技术的战略实施可以分为4个阶段:一、购买重工业各领域的基本工艺技术和设备,为发展军工产业奠定基础;二、据此仿制,扩建成苏联的军工生产体系;三、将这些工艺技术用于生产新型武器;四、用这些武器来反对美国及其盟国或第三国。中美建交后,中共引进美国技术设备时走的同样是这四个阶段。中共首先更新从苏联引进的早已落伍的西方早年的技术;其次是用西方的新技术改造军工体系,填补空缺;再次是依靠改造了的军工体系仿制新式武器;最后是用这些武器来“亮肌肉”,同时出口给美国的敌对国家。

奠定苏联工业基础的主要是30年代输入的美国的工业技术和科技知识。30年代罗斯福总统与苏联签订了一项协定,尽管他发现苏共一再违背承诺,将民用技术转用于军工发展,美国的援助仍旧继续下去,并未终止。1930年代初曾有数万美国专家到苏联,为苏联建立了巨大的工业生产潜力。这种技术援助仅仅在1939年苏联和纳粹德国合作侵占并瓜分波兰时暂时减少;然后,因希特勒进攻苏联、苏联成了美国在二战中的盟友,于是美国恢复了对苏联的援助,不仅直接提供大量战争物资,而且提供了大批工业设备和技术。当时美国与苏联的协定明确规定,美国援助中三分之一可用于战后重建;也就是说,直接用来打仗的军用物资占三分之二,战后增强工业体系的技术设备占三分之一。

二战结束后,本来不需要继续援助苏联战争物资了,但美国在1945年10月又同苏联签订了一项名为“输油管”的协定,这项协定很少为人所知。根据这项协定,美国为苏联输送了几千台专用机床和其他设备,这些设备都可用于军工部门,是美国1945至1946年的尖端产品,比苏联人当时在这方面所拥有的设备要先进得多。这种支援直到美苏冷战成型的1947年底才停止。

此后,苏联不断变幻手法,继续获取美国的技术,而美国政府并未加以限制。R.基尔马克斯在《苏维埃空军》(1962年)一书中写道:“俄国人通过不断注视航空工业的发展和巧妙地利用贸易手段与西方的疏忽,获取选中的先进设计、设备和生产流程。重点是合法地购买飞机、发动机、压缩机、螺旋桨、导航仪器和机载武器,获取技术和性能数据,了解设计、生产和试验情况与方法,以及采购机床,夹具、模具、半成品和重要原料。他们购买专利,以便自己生产某些现代化军用飞机和发动机。同时,一些苏联科学家和工程师则在西方最好的技术学校受训。苏联的手法还包括派遣贸易代表团出国,把考察员和实习生塞进外国工厂,聘请外国工程师、技术人员和顾问到苏联工厂中服务。”

就这样,由于美国政府对苏联不设防,美国公司就毫无顾忌地向苏联提供各种高精尖技术。同样的情形也发生在1980年代之后的中美之间。“红色老虎”就是这样被美国喂壮的。

四、留学生规律:获取美国技术的又一管道

美国国务院在美苏冷战时期曾保留双方的留学生交流计划,1980年代开始中美之间也是如此。这样的计划表面看起来并无害处,实际上却是“红色老虎”获取美国科技知识的重要管道,能为红色政权带来明显的军事上的好处。

1965至1967年间有162名美国人去苏联学习,178名苏联人到美国学习,但两国学生的专业完全不同。美国国务院1964年7月至12月的交流计划报告提到:“像过去几年那样,大多数苏联学生学习物理和工艺技术。美国学生基本上都选学人文学、社会学和语言学专业。”显然,苏联派留学生到美国去,是为了收获美国工艺技术的果实,以便用于军工产业。

实际上,美国和红色政权之间不可能存在真正的交流。中苏两国都希望美国的高科技领域的大学科系和实验室向自己的研究生和访问学者开放,以便他们有针对性地获取美国的科技知识,回去用于壮大冷战实力;但中苏两国都不准许美国的工程师到中苏两国的军工研究机构去访问学习。在中苏两国红色政权的眼里,美国工程师都是间谍;而中苏两国的技术间谍在美国的实验室里来往自如,美国却把这种方式视为正常的学术交流。

中共利用美国的学术开放,采取合法和非法的种种手段,让华裔学者大量盗取美国的科技知识和专利、实验样品等等,甚至从土生土长的美国人里挖掘人才,要他们“带枪投靠”。这种技术间谍活动早在90年代就开始了,“千人计划”就是在奥巴马任内得以逐步扩大的。可是,美国的几任总统对此都熟视无睹,只有在川普上任后,美国才意识到,中共的技术间谍在美国是何等活跃,因此开始关注“千人计划”。可是,许多美国大学仍然以学术开放为由,反对川普政府的防范红色技术间谍的措施。

五、养虎为患,美国两次犯错

美国两次养虎为患,两次把共产党极权政权培养壮大,最后两次被迫进入冷战状态。犯一次错,可以算是美国的愚蠢和大意;同样的重大错误原封不动地再犯第二回,就值得深思了。

今天来谈养壮苏联这头红色老虎,重点不是二战时期美国对苏联的技术和武器输出,而是二战前和二战之后对苏联的技术支援。美国对苏联的养虎为患从布尔什维克建立政权后不久就开始的;二战之后美苏冷战爆发了,美国仍然一度为苏联继续提供技术合作。可以说,苏联的冷战实力就是美国喂出来的。美国犯了对苏联养虎为患的错误之后,尼克松稍稍收紧了一些对苏联的技术管制,到里根任内,对苏联的养虎为患基本上终止了。但尼克松关上喂“西伯利亚虎”的大门时,却拥抱上另一头“东北虎”。从70年代末期开始美国对中共全面打开了大门,进入了第二次养虎为患阶段,直到今年川普关上了喂红色老虎的大门。

美国上个世纪20年代开始喂苏共这头红色老虎,到冷战开始,其中长达20年;从冷战开始到关上喂苏共红色老虎的大门,其间又是20多年。美国吸取教训了吗?它停止了喂苏共这头红色老虎,却开始喂中共这红色老虎。美国喂苏共红色老虎的时间是将近50年,从1920年代开始到1960年代末期,制定政策的既有共和党总统,也有民主党总统,两党都参与了喂苏共红色老虎的决策;喂中共红色老虎的时间是将近40年,从1980年代到今年,制定政策的既有共和党总统里根和布什父子,也有民主党总统克林顿和奥巴马,仍然是两党都参与了喂苏共老虎的决策。而分别结束喂红色老虎的,都不是职业政治家或军队将领出身的总统,而是演员出身的里根和商人出身的川普。一旦美国停止了养虎为患政策,红色老虎对美国的威胁就越来越小;它完全依靠自力更生来扩军备战,必然力所不逮,最后自然就成为冷战的输家。



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