何清漣氏 ★香港を悲しむ 2020年6月3日
2020年6月3日
トランプ米大統領は、5月29日、中国が香港に対する支配強化を主張していることを踏まえ、現在香港が享受している米国関連の特殊地位を廃止することを宣言しました。今のところまだ具体的措置はとられていませんが、この半年間に「2019年香港人権・民主主義法」(2019年11月27日成立)の情報が出尽くして、アジアの株式市場の動向は上向きになっています。残されたのは、中共当局の「カーテンコール」 — 香港人300万人の「香港・国家安全条例」(訳注1;)支持の署名(訳注2)と、香港のプロテスターたちの悲憤やるせない反抗でした。
(訳注1;参考情報→香港「国家安全法」の衝撃、習近平が暴挙に出た理由
香港の一国二制度が終わる日 福島香織氏 )
(訳注2:5月24日から31日まで、オンライン・オフラインの署名活動が全面的に展開されると、31日午後11時時点までの8日間で市民から寄せられた署名は、署名スポットでの署名が約184万人分、オンライン署名が約109万人分にそれぞれ達し、計約293万人の香港地区市民が、国家安全法支持を表明した。)
鄧小平の「香港は50年間変化させない」約束は、当時の国務院副総理であった田慈雲によって、中国国内で一歩一歩伝えられて行きました。 特に、その「馬も踊りもそのままに」(香港は今のままの状態が続く)」という有名な言葉は有名です。
当時、香港をはじめとする外の世界をよく知らなかった中国人は、香港での暮らしとは「ダンスや競馬、賭け事と豊かな生活」ぐらいのイメージでした。 香港がイギリスの統治下で、全く異なる政治統治によって繁栄した暮らしぶりなのを知っているのは広東人だけでした。
香港の暮らしは、ダンスや競馬や香港式のレストランなど物質的なレベルではなく、選挙以外の多種類の政治的権利、例えば、言論や出版、集会の自由であり、さらには選択の自由や移動の自由などの経済的権利があることでした。
一夫多妻の自由もありました。これは、中共が中国人に許さないものですが、最後には開放されて、例えば、カジノ王のスタンレー・ホー (何鴻燊)の4番目の妻アンジェラ・レオンのように江西省華人連合副主席になった例もあります。深圳には20万人もの、毎朝、香港の学校に通う越境通学児童(香港と中国人夫婦の子も含めて)いますし、メディアは、今、こうした子供たちの立場を心配しています。
ライフスタイルがどれだけ重要なのか? 米国は「2020年米国の対中戦略報告」の中で、米国の国家安全戦略(NSS)の4つの柱の最初に米国人の家庭とライフスタイルを防衛することをあげています。ライフスタイルと価値観は、切っても切れない関係にあるのです。報告では「我らの価値観が脅威を受けている」として、中共が、全世界で唱える価値の主張は、米国人の基本的信念、すなわち個々人が生命、自由、幸福追求の奪えない権利への脅威だとしています。
ですから、香港人が自分たちの英国統治時代からのライフスタイルを守ろうとするのは、正義の戦いであり、中共が推進する一国一制度は、これは野蛮が文明を冒涜するものなのです。
★香港は大陸の苦難を何度も引き受けてきた
広東人は香港が本土とは違うことをよく知っていて、ほとんどの人が香港に親戚がいるので、香港に逃げるのが「習慣」になっています。香港逃亡史を専門とする作家の陳秉眼氏の研究によると、1949年に中国共産党が成立した後、計4回(1957年、1962年、1972年、1979年)大量の香港逃亡の波がありました。
1979年には主に広東省、湖南省、湖北省、江西省、広西省を含む中国の12省62市(郡)からで、習近平の父 習近平の父である習仲勋が開明的な姿勢を見せて、「改革者」と褒め称えられ、鄧小平からも認められました。トウ小平は「経済を向上させ、人民の生活をよくすれば香港逃亡問題など解決する」と言ったと伝えられます。
当時の香港は、本土人が憧れる地上の楽園でした。香港への逃亡者の中では、広東人だけが捕まって労働による再教育を宣告されたり、「教育」拘留後に釈放されたりしていましが、他の省からの逃亡者は命がけだったのです。
文化大革命当時の1968年、国全体が軍事支配下にあった当時、私の故郷の紹陽市では香港からの逃亡者6人が射殺されました。一番年長だったのは、紹陽市の建築会社の張健という30歳のレンガ工でした。発表では「ブルジョア思想の影響を受けて」他の17歳から20歳の若者5人を説得して香港に逃げようとしたというものでした。当時、紹陽市からは毎年、豚や胡椒、ユリネ、ウコン、カンゾウなどを香港に輸出していました。彼らはこの荷物に隠れて香港に逃げようとしたのです。張健たちも不運にも見つかり、「国家に反逆した」と死刑判決を受けてただちに執行されたのでした。私が一番印象に残っているのは、処刑当時18歳未満だった青年でした。
★香港の報道と出版の自由は世界でも先端だった
香港はかつて報道の自由と情報の自由で世界のリーダー的存在でした。 多くの本土の省で「反動雑誌」とされていた「争鳴」は、香港の名物でした。。 陸路の家族旅行が再開された後、一部の人たちが密かに持ち帰った「争鳴」誌が本土の人たちに熱心に回覧されたことで、中共の嘘が暴かれました。
華人の出版業界の有名人であった何频は、1989年6月4日の天安門事件後に国を離れ、「明鏡出版グループ」を設立し、香港の人々が言うところの 出版されている「政治ゴシップ」の分野を拓きました。中でも「中国共産党皇太子党」が最も有名です。 このシリーズは香港人からは「政治ゴシップ」と呼ばれていますが、「中国共産党の皇太子党」など、真面目な本もたくさんあります。 私の著書『中国現代化の落とし穴―噴火口上の中国』(邦訳:坂井 臣之助 ( 中川 友訳、草思社)は、中国の出版社を13社も回っても出版できず、絶望的になりかけていた時期に、「明鏡出版」によって刊行されました。
しかし、香港の主権が中国に返還された1997年以降、香港は次第に報道の自由と出版の自由を失いました。その過程でどのように失われていったのか、私は「
紅色浸透」(邦訳「中国の大プロパガンダ」 福島香織訳 扶桑社)に書きましたので、ここでは繰り返しません。
ゴシップ出版分野には追随者が現れました。「習近平の愛人たち」はその一例です。作者の西諾がVOAの取材に答えて、これは小説であると言いましたが、銅鑼湾書店事件(訳注3)の原因になって、多くの人が捕まり、香港にいたのに中共から逮捕されました。何频がはじめた「政治ゴシップ」は、ここで終わってしまいましたが、その余波は今日に至るまで続いています。(訳注3:2015年10月店長・林栄基を始め4名が相次いで失踪8カ月後、中国当局によって拘束されていたことが判明)
★太子党の天国としての香港
香港が大陸に開放されてからも、婚姻関係や親子関係がある人以外は、大陸の中国人は香港に行くことは許されず、ただ『天国」を眺めてため息をつくしかありませんでした。しかし、ある種の中国人は香港に滞在する特権を持っていました。それが中国の「紅2代目」と言われた人々です。一体どれぐらいいたかは国家安全部だけが知っていました。
1980年代の「改革開放」が始まると、大陸社会には急速に数万の数を数える紅色貴族階級とその子弟という階層が生まれました。ほとんど全ての高級官僚、軍人の子供か親戚です。彼らは国家安全部門のブラックボックスを通じて、別名で国境を越えて、大陸の身分はそのまま保持して、香港、マカオ人の身分も所持することができ、さらに数年後には、米国、英国、カナダなどの国籍も獲得しました。
深圳市には、香港のパスポートを持つ紅2代目やその関係者が山ほどいます。この種の特権は、後になると益々増えて、隠す必要すらなくなりました。李小琳(元国務院総理・李鵬の娘。電力女王と呼ばれた)の香港人資格は、1997年後に大量の中国企業が香港に支店を設立にたときに、正式に獲得したものです。
習近平の反汚職キャンペーン開始後までは、香港では、こうした人々の避難所であり、彼らは特権的な人々でした。最も有名な避難所は、香港四季飯店の望北楼で、周梅森の「人民の名において」という有名なテレビドラマにも登場しました。
「習近平の愛人たち」というスキャンダル本と、避難所としての「望北楼」の存在は、ついに香港特区政府の「逃亡犯条例改正案」につながりました。そして、数カ月に渡る逃亡犯条例改正案反対デモは、米国の「香港民主人権法案」につながっていきました。
プロテスターたちは、米国のこの法案を歓迎し、これによって習近平が香港全体の利益を考えて譲歩し、「香港の二回目の中国復帰」への動きを緩め、香港に一時的な息抜き期間を与え、次のチャンスを求められることを期待していました。まさか習近平が「前進、前進、また前進」の「戦狼」となって、いささかも譲歩せず、「国家安全法」によって、香港の一国二制度の息の根を止める「死なば諸共」になってしまったのです。
紅2代たちも、香港という一国二制度の保護を失いました。今後、彼らの財産と特権は、最高指導者のなすがままになるでしょう。
★香港国家安全法は一国一制度への敷石
中国の国家安全保障法の公式解釈では、国家安全保障には、政治安全保障、国土安全保障、生態安全保障、社会安全保障を含む11のカテゴリーがあります。 国土の安全保障は、領土の完全な保全のことなので、香港と台湾は失うわけには行きません。
しかし、中共の全ての法律の核心は、「国家の安全」と「政治の安全」です。つまり、中共政権の安全であり、制度制度を変えることは許されないということです。冷戦開始時期からアメリカのジョン・ダレス国務長官は、経済的あるいは政治的な改革によって平和的に進化していくことを宣言してきました。そして、冷戦終結後のカラー革命は、中国の政権交代を目的としたものでした。ですから、中国も米国を最大の敵としてきたのです。
中国の国家安全保障法における「国家安全保障」の広範な定義は、香港の国家安全保障法にも必然的に影響を与えることになります。2009年5月28日に 全国人民代表大会が発表した香港の国家安全保障法に関する決議案によると、全人代常任委員会は、4つのタイプの防止、弾圧、処罰のための法律を制定する権限を与えるとしています。 国家の分離、国家権力の破壊、テロ活動の組織化、外国・治外法権の干渉など、香港をふくめた国家の安全を脅かす行為です。これは、ほぼ逃亡犯条例改正案反対運動に、ぴったり照準を合わせたような法律ですから、一切の反対の言論、行動を弾圧する道具になる予兆でした。
★「香港国安法」で粉々になる「東洋の真珠・香港」
香港のエリートたちが「恐れる必要はない。香港の国家安全保障法で処罰されるのは最大で1%、残りの99%は "安全だ」などと言うのは子供だましです。中国でも、おそらく国家安全保障法に違反して処罰されるのは、毎年1%以下の人でしょう。しかし、この1%が罰せられることで、残りの99%は、全てを失うことを恐れて口をつぐむようになります。少数のそれでも意識的に当局を批判する人々は、当局に睨まれます。作家の方方(訳注4:魯迅文学賞を受賞した中国の作家。「武漢日記」で世界的に有名になった)を攻撃した五毛や紅色愛国者によって、良心が包囲攻撃されるのです。
香港の「統一」23年の歴史は、一歩一歩自由を失っていく過程で、まずマスコミがピンク色になり、紅色になりました。そして、香港特別行政区の中央人民政府連絡弁公室による出版業界のほぼ全面的な乗っ取り(拙著「紅色浸透」参照)に遭って、同時に香港の教育部門への攻撃となりました。香港人は、ただデモを行い、発言する自由しか持っていませんが、「香港国安法」の出現によって、香港人は自分たちのライフスタイルを失います。
香港の「香港・国家安全条例」が迫る中、この一文は、消えゆく自由な香港に弔意を表し、中国の人々に、イギリスの統治時代の香港が、大陸の苦難を引き受けてきたことをを常に忘れないようにとの思いで書きました。(終わり)
原文は; 何清涟:哀香港