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粘液姉さんと夕暮れの街5


 い‐か【異化】
 [名](スル)
 1・人が他の生物の性質を併せ持つ事。カリカチュアライズ。
  「一般人だった彼が突然―した」

 最近新しくなったらしい辞書に、異化はこういった感じで書かれていた。どういうものなのか分かっていないんだろうなと思わせる用語例に笑いそうになる。まあ、どういうものなのか分かってないのは僕も同じで、異化についてどうにかして詳しい所を知りたい。姉さんから話を聞ければそれが一番なんだろうけど、これまで僕が凄惨な異化患者に会ってない所からして、意図的に強烈な異化患者に触れさせないようにしているのかも……なんて邪推してしまって、姉さんに直接質問しにいくのも気がひけるのだ。姉さんに話せず、家政婦さんに言ってもどうしようもなく、ベヒモス氏に声をかけるような緊急の案件という訳でもない。
 そうすると、選択肢の少ない僕は学校に行ってから親友に聞いてみるしかなくなるのだ。
「ところで、異化について姉さんに知られないように世間というか、周りの人がどう思っているかを知りたいんだけど」
「……久しぶりに学校で会った時に言うことがそれなのか? 「おはよう、エメリャノフ」とか「休み明けだから少しだるいね」とか最初は会話を楽しむものじゃないかとあたしは思うんだが」
「おはよう、エメリャノフ。休み明けだから少しだるいね。ところで、質問なんだけどさ」
「わかった。もういい。異化が周りからどう見られているかだな」
 僕の親友はとてもいい奴だ。会話をしていて重たい話にならないで済むという意味では、知り合いの中で一番なんじゃないだろうか。蝶に異化しているにも関わらず、異化のブラックジョークとかも飛ばしてくるあたり、簡単な相手ではないけれど。
「お前が抱いてる疑問は自分の周囲の皆がどう思っているかだな。こういう場合は周りに聞いて回るのが一番だが、異化の研究者が近くにいると偏りが出るわな。……結論から言うと、一般的には異化は嫌なものだ。異化していない人は異化したくないと思うし、異化してしまった人もなんとかして生きるしかないから理屈をこねる。異化は進化であるとかだ」
 自由に扱えないものは不便でしかないのにな、とはエメリャノフの台詞。
「選択肢の問題だ。異化していない人間は将来になれる職種も多く、人生に色んな選択肢がある。だが、異化してしまえば選択肢は非常に狭まるんだよ。あたしだって蝶に異化した以上、水泳選手にはなれっこない。翅が生えてる訳だから」
「僕はその翅を綺麗だと思うよ。蝶に異化したと言っても、エメリャノフは透明な翅が生えただけで、目がたくさんあったり触角が生えてたりもしないし。髪型はちょっと触角生えてるみたいだけど、綺麗な色だしね。それにスタイルもいいし、僕からは美人さんに見える」
 僕がいつも思っているように褒めると、彼女は首筋をかきつつ異化の話題に戻す。
「髪とか格好はどうでもいいだろ。大切なのは異化によってこれまでの生活や進路が一変するってことだ。やりたかったことも大体できなくなる。あたしの場合は、陸上とかマラソンに水泳、高跳びなんかも無理だな。普通の身体じゃないってのは、皆と一緒に行動できないんだ。お前みたいに普通なのに異化している面子と仲良くしてるのは特例だよ」
 エメリャノフはそこで言葉を切ると、周囲を見渡す。学校の教室は閑散としていて、ちらほらと人がいるだけだ。30人入りそうな教室に、5~6人。異化という問題を抱えたこの街は、出欠に関してかなり緩いけれど酷い出席率だ。この学校は自由出席ではないはずなんだけれど。
「こうして街に学校が一つあるのは良いことだけど、年度が上がる度に出席できる奴が減っていくだろ。それだけでも不自由なんだよ、異化ってやつは。だから、あたしは異化ってやつが嫌いだよ。不幸みたいなもんだ」
「自分が異化してるのに?」
「あたしが異化してるのと、異化に関してどう思っているのかは別だろ」
 男前なエメリャノフの考えに、僕は納得しつつあった。
 異化は不可逆なのだ。異化を根本的に治療できない以上、異化による特性よりも周囲に合わせて生きる事のできない方がきつい。エメリャノフはそう思っている。
「エメリャノフは、スポーツの大会とか出たかったの? 例えが陸上競技ばっかりだったけど」
「あたしはもっと色々と試したかっただけかな。もっと走り込みを頑張ったりとか、跳ねたりとかしてみたかったんだ。今は翅で飛んだりしてるから、それが楽しくもあるけど」
 そう言って、背中の翅をパタパタと揺らす。ピンクの縁取りがついた黒いパーカーの背には切り込みが入っていて、揺れ動く翅と一緒に少しだけ肌が見える。素肌の背中がちらちらと見えると、僕は目を逸らしたくなる。実際にそうすると、エメリャノフは背筋を見せつけてくるので見ない振りでとどめるけど。
「さっきまでの話は、あたしがそう思ってるってだけで逆の考えの奴もいるだろうけどな。異能とかそういうのに憧れてる連中や、金の臭いに食いついてる屑とか。そういうのをまとめて現状維持に持っていってるお前の姉さんは尊敬してる。過激な反対派も賛成派もひっくるめて留めるってのは凄まじい政治手腕だしな」
 あたしにはさっぱりの世界だ、と彼女は言う。もちろん、僕にも理解できない世界だけど姉さんが皆から認められているのは嬉しい事だ。それだけに、姉さんに相談ができない現状が気にかかってしまう。
 姉さんはこれまで僕に軽度の異化患者だけをみせていたのかもしれない。姉さんのことだから僕に気を遣っていたのかもしれない。そのことが妙に気にかかるのはどうしてなんだろうか。僕は姉さんに遠慮してほしくなかった、のだろうか?
「……僕がまだ異化してない事を、エメリャノフはどう思う? 姉さん曰く”異化については未だによくわかってない”らしいけど」
 唐突な僕の質問に彼女は「話が飛ぶなあ」と首をかしげながら、短く伝えてくる。
「嫉妬してるつもりは無いな。ただ、珍しいとは思うけど」
 この街で異化してない人間を探す方が難しいし。エメリャノフはそういうと、授業の支度を始める。どうやら話し込んでいるうちに先生が来る時間になったようだ。僕も鞄から教科書を取り出して準備を始める。
 今日もいつも通りの学生生活が始まる。昨日まで勤めていた先生は異化の影響でお休みらしく、上の学年の先生が出欠をとって授業が始まる。基礎教養の時間が終わると自習ばかりだけれど、こうして一人で勉強していると時間が早く流れるようで僕は嫌いではない。


 昼休みに何人かに昼食を誘われるがエメリャノフの誘いを優先する。朝は迷惑をかけただけに、今日は学食を奢ろうと決めたのだ。財布の中身は乏しいけれど、こういう時に出し惜しみするほど薄い訳じゃない。姉さんから「おんなのこには、やさしくすること」と言われてるし。
 そういう訳で、午前の授業が終わってからエメリャノフを学食に誘って「さぁなんでも頼むといいさ」なんて、かっこつけてみた。
「いや、あたしは自分で作った弁当持ってきてるし。食堂は広いから、ここで弁当広げてもいいよな」
 ただし、エメリャノフはお弁当派だったというオチ。口調からして学食でラーメンでも啜ってそうなイメージがあったが、女の子なんだからそういう事には気をつけるよな。外見からしてみれば、立派なレディだし。金色の髪に色白な肌、すらっとした姿が魅力的……というのが数少ない男子から聞いた彼女の評判らしい。
「実際に話しかけるのを躊躇う位の外見なのに、中身がからっとしてるからなぁ」
「誰の話だ? あたしみたいなすっげえ美人の話みたいだけど」
 本人が常にこの調子だからか、僕としては接しやすい親友だ。エメリャノフも話しかけてくる相手が少なかったからか、学校に行っている内に僕達はすっかり仲良くなった。お互い積極的に友人の輪を広げていくタイプじゃなかったから、余計に仲良くなったかもしれない。
「この前に会った異化患者さん。車椅子なのにすらっとした感じだった」
 とりあえず話題を誤魔化すために、フクロムシの患者さんの事を口にする。
「ああ、そういえばお前って病院に顔を出してたな。朝の相談はそれ関連か。その人が異化に関して肯定的だったりしたんだろ」
「鋭いなぁ。その通りなんだけどさ……その話を聞いて、なんだか納得できなくて」
 僕の悩みをそのまま言い当てたエメリャノフに、思った事をそのまま伝える。
「考え込むと嵌っていくだけだから、あんま深く考えんなよ。思想は個人の自由だよ。つまり、相手がどう考えてるかなんて関係無いって事。大事なのは相手が何をどう捉えているかじゃなくて、お前がどう思いたいか。お前自身は異化している相手は気にならない。でも、異化に肯定的な考えを聞いてみたら違和感を感じた」
「そうだね。異化が正しいって聞いてみて、もやもやしたというか」
「じゃあ、その異化に肯定的な意見に納得できてないんだよ。お前は異化そのものは嫌ってない。もやもやしているのは、考えの方だ」
 結論じゃなくて過程が問題なんだよ、とエメリャノフは笑う。まるで簡単な事のように僕の疑問を形にしてくれる彼女はやっぱりいい奴だ。男よりも女の子にモテそうな位に格好いい。当人にイケメンだよ、なんて言うつもりは全くないけれど、口にせずに感謝する。
 そうか。僕が悩んでいたのは、異化でも異化患者でもない。家政婦さんが途中で止めたあの人の考えがおかしいと思ったからなのだ。彼女の異化を認める考えが、変だと思ったからなのか。
「お前は人に感化されやすいから、これが正しいんだって言われたら正しいと思うのかもしれないけど、人の言ってることなんて大体間違ってると考えるくらいでちょうど良いものだぜ? 鵜呑みにしがちなお前は、あたしの言ってることも話半分で聞いてていいんだ」
 説教みたいでアレだけどさ、なんて頬を染めるエメリャノフは自分の考えをしっかり持っていて、こうして一緒に過ごしていると落ち着く。そのはっきりとした物言いには、いつだって頼りになる奴という印象がついてきていて、僕とは明確に違うと思わせるものがあった。
「お前の何が不安なのかはわかんねえけどさ。気になるなら詳しいところを聞けばいいんじゃないのか」
 僕の聞きたいこと。異化をどうしてそんな風に受け止めたのか、他の人がどういう風に異化を見ているのか。僕がどういう風に異化を見ているのか。
 そんなことを考えた事もなかった。これまでの僕は姉さんについていっていただけで、姉さんのために自分がしなければならないことを最初に考えていた。
 自分はどう考えているのか。そんなことを思い悩んだことなんて、これまで一度も無かったのだ。
 異化を認めるけれど、その認め方ははっきりしない。異化を受け入れているけれど、理屈はない。ふわふわしている、僕の想いを。