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粘液姉さんと夕暮れの街2


 姉さんとの仕事の中でも特殊病棟の中はひときわどんよりとしている。廃液が滴りおちてきそうな、まるで夏場で溶けきったアイスの棒が糸をひくような日常のなごり。通路を横切っても、人型をした人の方が少ないからか、綺麗な白い床に這いずったような跡が残っている。正直に言うと、長居はしたくない場所だ。
 ここは「異化はこれまでの生物学を大きく前進させる機会である」と考える医者みたいな研究者と、その被験体になる患者達との日常だ。姉さんはそういった半端に頭の悪い彼らと話し合い、異化を今の社会がどう受け止めていくかという点も調べている。
 「異化の軍事的利用」とか「異化による人類進化の可能性」とかを主張する危ない連中を上手く切り貼りして、異化に対する忌避感……いわゆる気持ち悪いという世評をどうにか世間に受け入れられるようにする加工業。街ごと爆弾なりで焼き払った方がいいのかを政府が調べる時の為に、姉さんは少しでもこの街を残せるように苦心する。そんなことを主にやっている姉さんの仕事と、この特殊病棟に対する姉さんの仕事は似ている。姉さんは異化患者が不可逆の異化に対して、どうにかして折り合いをつけられる為に特殊病棟に向かうからだ。さまざまな種類の生物知識を活用して患者のメンタルケア、ないしは状況の好転を行うのが姉さんのやっていることのひとつで、僕や姉さんを知る人が姉さんを尊敬しているところでもある。

「きょうもあのこはべったり?」
 姉さんが担当の看護師である”ベヒモス”氏にたずねると、彼は静かにうなずいた。ベヒモス氏は身長が4m近くあり、がっしりとした肉体の持ち主で一言で伝えるなら巨大な男性だ。噂ではあるが、異化現象に対する過激な排斥派がショットガンを持って病棟に侵入した際に、彼が正面からショットガンの弾を数発を受け止めた、という話さえあるほどの超肉体派。巨体にして強靭、内面は頑固で多少不器用である彼はこの病院の中では信用できる看護師の一人。
「ええ。六〇一の患者は常に他者を傍につけようとします。異化の現象としてはこれまでに類を見ないものでしたので、女史の協力を仰げればと思っていましたが」そこでベヒモス氏は口をつむぐと僕の方にそっと目を向けた。
「はっきりと言わせていただきますが、彼女の異化は他者に対して干渉する極めて危険な類であるかと。接触する際には十分な警戒をお願いします」
「だいじょうぶ。わたしのことは、しんぱいなし」
「異化における女史の心配はしていません。ですが、弟くんは完全な人間でしょう?」
 そこまでベヒモス氏が言うと、姉さんはハッキリと顔を顰めた。理由はなんとなく推察できる。
「わたしもきみもおとーとも、にんげんだよ。わたしがそこをまげるつもりがないこともしってるでしょ」
「しかし、弟くんがあれほどの異化患者に会うのは初めてでしょうから警戒しすぎるということはないでしょう。異化はあまりにも無差別で現代科学では解明できないものです。なぜ異化という現象が起こるのか、という点すら不明なのですから弟くんがこうして傍にいることによる不具合は……」
「構いません。僕は大丈夫ですよ」
 ベヒモス氏が僕の心配をしてくれているのは素直に嬉しいが、さすがにここは口を挟まなければならないだろう。僕のような異化していない人間はこの街では殆どみられないらしいが、僕は自分の意思でここまで来ているし姉さんのことをベヒモス氏に任せきりにしておくつもりもない。
 じっとベヒモス氏に視線を合わせると、しばらくしてからベヒモスは肥大化した片手で頭を掻いて口を開いた。
「ははぁ。わかっていたことではありますが、弟くんも覚悟の上という感じですか。あまり人の行動に口出しするのもこの街ではナンセンスですし、このあたりで引き下がりますよ。ただ、異化患者との接触にはリスクがあるという認識だけは忘れないようにしてください」


 ベヒモス氏からの忠言にうなずいて病室の前にたどり着く。棟内の廊下に殆ど人はおらず、移動中でもこうして患者の話ができるくらいには余裕がある。特別病棟は相当の理由を持った患者のみを受け付けているので、それも当然だが。キャリーケースの留め金を外しつつ扉を開ける。中からこぼれるのは太陽光と同じ作用をもたらす人工照明の光と、女性の声だ。
「それで、その兎を探して学校中が騒ぎに騒いでいました。突然教室から出てきたわけですから」
「教室から兎が唐突に出てくるってどうなってるのよ。……ちなみにどんな感じだったの?」
「少し白い斑点があったかもしれないけど黒兎という感じでしたね」
 中に入ってみるとそこには女性看護師とベッドに横たわった女の子がいた。髪を染めているのか茶髪とも黒髪ともいえない色合いの髪。容姿は緩い美人さんという感じだけど、少しきりっとした顔つきにも見える。そんな女の子はベッドに寝かされていて、足や腕は関節を無視したようにねじ曲がっていた。傍らには車椅子。顔つきや表情に明確な異常性は無かったけれど、女の子が異化しつつあるというのは僕の目から見ても明らかなものだった。
「少しいいですか。この街で一番異化に詳しい先生をお呼びしたので、改めて診察を行いたいのですが」
 ベヒモス氏がやんわりとした話し方で二人の会話に口を挟むと、話が盛り上がっていたのか女性看護師の方から不満の声があがった。それを女の子がたしなめて女性看護師が病室から出て行く。いつもなら仕事熱心な人なのだが。
 姉さんをケースから出すと、にゅるんと人の形になって女の子の前に立つ。人の形とはいってもところどころ透けており、一目見ただけで普通の人じゃないのが分かる程度だ。
「おはなししたいんだ。おんなのこちゃん」
「私は女の子ちゃんじゃなくて、私にはカナメという立派な名前がありますよ。にゅるにゅるさん」
「わかったよ、カナメちゃん。じゃあ、ちょっとアンケートをしよう、すぐにおわるよ」


 姉さんは女の子をいなすようにして、いくつかの質問をすませた。その受け答えを僕が筆記しながら、姉さんからの指示を聞いて鞄から必要な物を取り出したり、仕舞ったりするのが、僕のやることである。
 姉さんのカウンセリングは極めてまっとうな質問を行い、その間に世間話を続けるといったやり方で、一見すると面談でただ話しているだけのように見える。実際に世間話の内容自体はただ話しているだけだから、まったくの見当違いという訳でもない。だが、姉さんのカウンセリングは途中でさりげなく最初に行った一般的な質問を繰り返している。最初の回答とある程度リラックスした段階での回答の齟齬から、相手の心理を見抜くのだ。
 最初の回答は「その人が正しいと思っている答え」だ。いわゆる規範意識というやつでこうするのが社会的に見て当然であったり良いとされる答えになる。それに対して質問を行う相手に対して安心感を持たせて、もう一度気づかせないように同じ質問をすると、その人の本音に近しい部分が見えてくる。通常、その人の本音を引き出すにはきちんとした歳月を経て粘り強く対話を繰り返す必要があるけれど、今回はそれをショートカットする。
 姉さんは異化している部分、粘液に触れさせることでその物質に浸透して操ることができる。姉さんの体から離れた粘液も体の一部として動かせるからか、相手に飛沫なり接触なりで粘液を付着させて体内から相手を診るのだ。悪用しようと思えばいくらでも悪用できそうではあるけど、姉さん曰く対象が無防備でもない限り使い勝手は非常に悪いらしい。今日の姉さんは患者さんと世間話をしつつ、側にいたお姉さんとの関係について聞いていた。実際に異化について調べたり話し合うのは病室を出てからになる。


「それで、姉さんは今どこまでわかってるの?」
「どーいうのか、まで」
「異化の進行に合わせて極度に他者に依存してくるようですし、共生や寄生系の生物が混ざっている可能性が高いと思われますが」
 ベヒモス氏が注釈してくれる。姉さんはあまり言葉で話すのが上手ではないから、こうして誰かに話させることで自分の意図を伝えることも多い。言葉が足りなくて誤解されたりしないように、わかってくれる人同士での会話でしかそういうことはしないんだけど。
「寄生というと寄生虫とかになるのかな。イソギンチャクとかが魚と共生してるとかそういうのも聞いたことあるけど」
「クマノミですね。イソギンチャクに餌となる魚を誘導したり、身体を身ぎれいにして健康を保たせたりと双方に有益な相利共生としての関係性になりますが、今回のケースはどうでしょうか」
「ちがうんじゃないかな。ひとにべたついて、からだがまひしてる。これは、フクロムシ」
「フクロムシ、ですか?」
「くわしいことは、メールでおくるよ。きょうはかいさん」
 ベヒモス氏の疑問に対して姉さんはそう言うと、廊下に置きっ放しだったキャリーケースにぐにゅりと身体を押し込む。今日はこのまま帰ることになるのだろうか。姉さんが口にしなかった言葉がなんだか妙に気になるけれど、ベヒモス氏もこれ以上話すつもりはないようで、僕らはそのまま家に帰ることになった。
 一階の受付で手続きを済ませ、姉さんの入ったケースを引きずりつつ歩く。移動中は旅行中の一人旅みたいな格好になるけれど、仕方ない。姉さんは野外ではうまく身体を作ることができないし、やったとしても周囲の人から忌避されるだろうしね。
「おとーと? どうかしたの?」
「なんでもないよ、姉さん。それよりもフクロムシって言うのはどういう生き物なの?」
「そんなにきになる?」
 ケースの中から姉さんのくぐもった声が響く。ケースは車輪のついたタイプだから道路の凸凹に引っかかって小刻みにゆれ動くが、姉さんの声は常に一定のトーンを保っていた。声帯から出るのとはまた違う喉からでる、冷静な言葉。僕は姉さんに、ほんのすこしだけ気になってると答える。
「ひとことでいうなら、きせいちゅう。カニにとりついて、じぶんのからだをたまごのようにまもらせるの。カニはフクロムシをこどもだとおもってかわいがる。フクロムシはとりついたまま、ずっとカニからえいようをとるんだ」
「そのフクロムシに異化したってことは、その性質をあの子が持つことになるってことだから……」
「たぶん、たいしょできなくなる。もう、どうにもならないかも」
 それは、思っていた以上に残酷な一言だ。フクロムシの性質は彼女を誰かに寄生して生きていく様な身体にして、傍にいる誰かを異化による力で親のように変化させるのだろうか。他人を家族に変えてしまうような、誰もが疑問を抱くであろうことを誰にもどうにもできない。
「こんなに怖い異化もあるんだね。その、もっと外見が変わるようなものだと思ってたけど」
「なかみもごっそりかわるから。おねーもそうだよ」
 姉さんは一拍置くと、なんとなく悲しげな音色で僕に告げた。姉さんの声帯は粘状の体内で意図的に作り出した音だから、姉さんが本当に悲しんでいるのかどうかはわからない。ただ、僕には姉さんの気持ちに少しだけ触れたような気がした。
「おねーのしごとをきいて、あこがれるこはいる。おねーのからだをみて、あこがれるこはいない。そういうことだよ」
 姉さんは異化における第一人者、特殊生態学の天才、フィールドワークの専門家。そういった業績に憧れて尊敬してくれる人はいても、姉さんのスライム状の身体になりたいと思う人はいない。だって、どうみても引き返せない位に異常だからだ。
 僕はそっとケースの中に手を入れて、姉さんに触れる。姉さんは少しだけ身じろぎをしてから、ゆっくりと僕を受け入れてくれた。