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粘液姉さんと夕暮れの街4


 僕が硬めの座椅子から腰を上げて手を振ると、家政婦さんが本を数冊抱えて戻ってきた。いくらなんでも紙袋を両手に持って入るのは面倒だったから、家政婦さんは本を借りて、僕は休憩室でカフェ・モカにチョコレートを砕いて入れていたのだ。輸入食料品店で買った僕達の共通の好物。最高に甘くしたカフェ・ダブルモカ。
 姉さんはコーヒー自体があまり好みじゃないし、ベヒモス氏はブラック派、僕の親友にいたっては紅茶狂いとダブルモカを一緒に楽しんでくれるのは家政婦さんだけだったりする。一緒に食べるお菓子はあんまり甘くないものを選ぶけどね。
「何か面白そうなのはあったのかな。宇宙飛行士ものとか」
「科学小説の棚に人造の恋人について書かれたものがありましたので、それを借りました。好きな作家の作品でしたし、男性の理想というテーマには心惹かれるものがあります」
「実は恋に興味があったりする?」
「そこそこに。ご主人様は恋について詳しかったりしますか?」
「……詳しくないです」


 機嫌がいいからと、ちょっとつついたらこうなる。それにしても、人造人間というと、フランケンシュタインを思い出すな。人によって作られて人から遠ざけられた生き物は、異化患者にほんの少しだけ似ているのかもしれない。異化は人の手によるものではないし、どう発生するのかも定かではないけれど一度なってしまえばそういう風に生きるしかないというのは変わらないことだ。
「『まわりを見ても、おれのような者はいないし、いるという話を聞いた事もない。それならば、おれは怪物なのか?』……か」
「どうかしましたか? いきなり文語調で話しかけてきたりして」
「ちょっとね。人造の恋人と聞いて思いだすことがあっただけ。これからダブルモカを片手に読むの?」
「いえ、この本は何度か読み返していますので内容は殆ど頭に入っています。他に借りた『怪奇中年怪盗団!』でも読もうかと」
「酷いタイトルの本だね、それ」
 中年怪盗ってなんだ。団体が作れるくらいにいるのか中年怪盗。加えて怪奇なのか。ツッコミ所は多数にある。
「タイトルだけで、興奮する作品ってあると思います。この本はわかりやすくB級って感じが出ているじゃないですか。そういう所が好きなんですよ。恋愛小説なら、タイトルに恋愛とかつけてくれると、もっと選びやすいのに」
 僕はため息をつくと、家政婦さんの話を聞いているふりをする。こういう時の家政婦さんに「あらすじを読めばすぐにわかるじゃないか」なんて言った日には、自分だけミートソースのないミートスパゲッティを食べることになるからだ。適当に相づちをうって、ふんふんと聞き流す時には聞き流す。それは家政婦さんと雇用主の関係というよりは、専業主婦とその旦那みたいだ。いや、別に彼女のことが恋愛の相手として好きな訳ではないけど。
「それにしても、ご主人様は何か本を借りないのですか? 普段からよく本を読まれると思っていましたが」
「気晴らしとして読んでるだけなんだけどね。ちょっと色々と思い詰めている所もあるし、荷物を任せて何冊か借りてこようかな」
「思い詰めている、ですか。どうされたのか聞いても?」
 隣に座った家政婦さんがカフェ・モカから目を離して、こちらに顔を向ける。こういう時に家政婦さんは僕の言葉をじっと待つんだ。普段は茶化したり笑ったり冗談を言ったりする癖に、大切な時には真摯で誠実。少なくとも僕に対してはそう見えるだけに、この人の問いかけを誤魔化すのはとても難しかったりする。
 誠実に対応されるほど嘘がつきにくくなるというのは誰が言っただろうか、だんまりに耐えきれなくなってしまって僕は先日の出来事について話すことにした。姉さんと病院で会った患者、フクロムシの姉妹。異化の進行を、悪化を待つだけの彼女達について。
「具体的にどうするかはともかく、ご主人様は彼女達を助けたいと思っているんですか?」
 家政婦さんの言葉は冷静そのものだった。冷ややかと言い換えてもいい。
「お姉様の対応は現実的に考えて妥当なものだったのでしょう。直接的な接触を減らして刺激しないことで現状を維持する。対症療法しかない異化で、そういった措置をとるのは当然かと。けれど、実際に四肢が動かずに退化していく姿を直視して「これは酷い」とか「可哀想だ」と思ったんですか?」
 彼女が顔をぐっとしかめて私は怒ってますよというポーズを示したから、僕は家政婦さんの言いたいことをなんとなく察した。異化患者を下に見たのかと聞いているのだ。
「異化患者は憐憫というものに人一倍敏感に生きているから同情したりしないように」
 この言葉はベヒモス氏からも散々聞かされて、自分でも心がけているつもりだった。ただ、実際に患者さんと顔を合わせて心がぐっと痛むような気持ちになってしまったのだから仕方が無い。
「……見ていて辛かったというのはあるよ。ゆっくりと人の身体が人ではない何かになっていく、それも原型とはまったく異なる形になるんだから僕からしたら違和感しかない。どうして助けたいと思ったのかと言われると、よくわからないけど」
「そういうことですか。外に出られるような異化患者は外見にかなり注意していますから、違和感を感じにくい所はあるかもしれません。街中に美人さんが多いのは偶然じゃないんですよ」
 私も美人さんの一人ですし、と家政婦さんは笑う。
「つまるところ、ちょっと気分が悪くなったというだけでしょう。そういう意味でも、今日の散歩はいい機会でしたね」
 うんうんと納得しながら頷く家政婦さんを見ながら、それでいいのだろうかと思う。
 異化は治療法の確立されていない病気。なってしまえば、うまく付き合っていくしかない。目を逸らして生きていくしかない。そんなものなのだろうか。



「あの、ご主人様」
 家政婦さんの小さな声に、僕は顔をあげる。僕の前には人が立っていた。家政婦さんは隣に座っているから、当然違う。その人は僕にちょっと困った顔をしながら話しかけてきた。
「すみません。病院でお会いした看護師さんですかね?」
 目の前にいた人は、フクロムシの患者であるカナメさん。病室とは違って電動の車椅子に乗っている少女だった。
「・・・・・・たまたま見かけたので、つい声をかけてしまったんですが。もしかしてデートのお邪魔でしたか」
 カナメさんは頬をかきながら、僕達を見ながらそう言う。これはデートではないと即座に伝えようとするが、家政婦さんに腕を引っ張られて口を閉ざす。家政婦さんの顔は何故か真剣で、口元もしっかりと引き締まっていた。
「男女二人でゆっくり話している所に首を突っ込むのは、あまり感心しない行動ですね。これから私が彼を口説き落とす所だったので、今はちょっと引き下がっていてくれませんか? 仕事の話であれば、こういうプライベートでするべきではないでしょう」
「そういうのじゃないので、隣の人は気にせずにどんどん話してきてくださいね」
 家政婦さんが真顔でとんでもないことを言い出したので、きっぱりと否定する。百歩譲ってデートだとしても、口説き落とされるとかそういうことにはならない。絶対にだ。
「ええと、看護師さんには必ずお礼を伝えたいと思っていたので」
 彼女はそう言って頭を下げてきたけれど、僕は何もできていない。姉さんがカウンセリングをして、僕はその記録をとったり姉さんを運んだりするだけだ。それに姉さんも言っていた。どうにもならないかも、と。
「いえ、僕は姉の手伝いに近いですし。それに今の段階では治療も進んでませんしね」
「はい。治療に関してもベヒモス先生から難しいと聞いています。四肢が改善することがない以上、これまでのように過ごしていくのは難しいとも」
「…………」
 実際に聞くと、やはり重いものが喉からこみ上げてくる。まっとうな生活を送ることのできないフクロムシへの異化は、もうどうしようもない所まで来ているのだろう。実際に患者である彼女の車椅子を見ても、なんとか動かしているといった感じだ。
「四肢うんぬんということは六〇一病室の方ですか。現時点で女史がケアを行っているはずでしたが……まだ治療中なのに、お礼ですか?」
「異化があって、家族の仲も改善されましたから。それに異化も決して悪いことばかりじゃないですし」
 家政婦さんの疑問に、彼女は続けて答える。
「異化する以上、それに合わせた力もあるというのも聞きましたし。単純に身体が動かなくなったというよりも、身体を動かさずに生きていける力もついてくると考えれば悲しいことばかりではありませんよ。それに、頼りになる皆さんがついていますから大丈夫です」
 そういうカナメさんの顔は気丈に振る舞っているようではなく、本気でそう思っているのだろう。意気揚々とまではいかなくても、これから先を頑張ろうという意思が感じられて驚いた。なにしろ異化のことを僕は不治の病だと考えていたし、実際に病院で治療を行うからだ。そういう異化の可能性についてまでは考えていなかった。
「異化にどう付き合っていくかは人それぞれですよね。私も犬の異化患者ではありますが彼と一緒に散歩させてもらっていて、とても有意義な日々を過ごしています。少年に首輪をつけて飼われている日々はとても楽しいですよ? 体験してみません?」
「…………あの、お二人の邪魔をしてしまったみたいなので、失礼しますね。それではまた病院で」
「待って。待って。違いますから。首輪もリードも完全に家政婦さんの趣味で、それに僕は付き合わされているだけであって」
 僕が家政婦さんの言葉を訂正している間に、ささっと器用に車椅子で後ずさりをしながら患者さんは立ち去っていた。引き留めようと追いかけた時にはもう既に姿が見えずに、僕達は図書館の休憩室で立ちつくす。
「なんであんなことをしたのさ。ものすごい勢い誤解が生まれたよね。というか、女性に首輪を嵌めて散歩する趣味だと思われたよね」
「ふう。私もいい仕事しました」
 とんでもなく頭を抱えざるを得ない状況になって家政婦さんを問い詰めても、素知らぬ顔でそんなことを言い始める彼女をじろりと見る。こんな家族はやっぱり嫌かもしれないと思い直すべきかもしれない。ともあれ、異化に関して齟齬というか人によって考え方が違うのはなんとなくわかった。家政婦さんは異化患者に同情するなと言った。カナメさんは異化を認めて生きていくことを考えていた。僕は、まだよくわからない。
 異化って何なのだろうか。姉さんや家政婦さんは異化しているけれど、元気に暮らしているように見える。移動とか食事とか不便なこともあるけれど、それを含めても特に気にしてこなかった。けれど、患者さんの身体を見ると異化が怖い病気の様に思えてしまって。それを受け入れている彼女を見ると、なんだか不安を感じたのだ。僕は姉さんや家政婦さんの事をどう思っているのだろうか。人じゃなくなった彼女たちは僕をどう思っているのだろうか。
 その日に読んだ本の内容は憶えていないけれど、その日の会話を忘れることはなかった。