ワークショップにおける体験のデザイン ー五感六根の制約で「未来」を拓くー
五感を使って感じる
中野民夫さんの「ファシリテーション革命 参加型の場づくりの技法 」には、ワークショップの「体験」について以下のように記載される。
体験
ワークショップは、「体験」の場である。言葉を使って頭で考えるだけでなく、五感を使って自然を感じたり、心や身体の全体を使って「体験」を積み重ねてねていく。
古きを温ねるー体験を直覚するー
高尾山峰中修行会(しゅぎょうえ)というワークショップでのこと。
白い行衣に身を包んだ30人ほどの男性たちが一筋の滝の前に2列に並ぶ。涼やかな顔立ちの若い僧、薬王院蛇滝の青木主管が口を開く。
修験の道で、山は母の胎内です。そこにいる間に「なにか」を感得する。山を降りることは、もう一度この世に生まれることを意味します。山で感得し学んだことで日常を変えていくのです。それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。では、山に入るためまずは滝を浴び、心身の罪穢れを清めます。気を引き締めて臨んでください。
その後、写真のような「ワーク」が分刻みのスケジュールで進む。ほかに、密教瞑想、雑巾掛け、食事(精進料理)も祈りと共に瞑想的に進む。
感覚が研ぎ澄まされるにつれ原生林の新緑や紅葉が鮮やかに映りだす。早朝の護摩に出るため宿坊から本堂に向かうと、漆黒の森を挟んで東京、横浜方面の広大な夜景に朝焼けが重なる。それを横切るようにムササビの黒いシルエットが飛翔する。その瞬間、内界に自然界全体の命と繋がる感覚が湧き上がる。
高尾山薬王院の場合、千巻経と云う20回連続で般若心経を読誦する行がある。50人が20回で述べ1,000巻という「祈りの共創」だ。勇壮な太鼓と法螺貝が鳴り響き、はじめのうちは何処を読んでいるか迷い出す。流れに戻れるとみ仏に救われた気持ちにもなる。山道を登ってきた足で正座を続けると痺れもキツい。実はこの間、護摩の炎にお札(ふだ)がかざされていて、翌日解散前に「これは、あの時皆んなが祈りを込めて作り上げたもの。2枚あるから、大切な人にも差し上げてください」と渡される。3枚だと山姥が追いかけて来そうだから2枚で良かった!
かくして翌日の夕方、クライマックスの紫燈大護摩で全員が祈祷し「日常」へ帰っていく。
危険もあるが楽!
武蔵御嶽神社の体験修行の時は、台風の翌日で滝の水量が多く、脳しんとうのようなことが起きたのか、20分間くらい半分幻覚がやってきた。もう半分の意識は「今、脳がパニックしている」と冷静に観察していた。
標高1,000メートルを超える奥之院山頂で輪になって座禅を組んでいたら、冷やかな風と共に1匹のスズメバチが飛来してきた。僕の身体前面に拳1つの距離でホバリングし、様子を伺っている。とっさにのけぞりそうになったが、ここで彼女と和解するには呼吸に集中して恐怖心を沈めなければならない。やがて彼女は僕の左胸に2度、キスでもするかのように接触し、やがて飛び去った。
危険も隣り合わせだが、冷暖自知の世界。「水の冷たさ、火の熱さ」は思考を超えた体験の直覚である。禅問答のように「説明でなくここに体験を呈せよ!」と叱られない。むしろ楽で清々しい。
FM仙台 塩沼亮潤大阿闍梨「今朝の一言」
行とは、決して苦しむために行じるのではありません。
何不自由のない幸せの中では、理屈ばかりを考えてしまい、
人間の本質的なものが見えてきません。
人生とは一体何なのか、自分とは一体何なのか、なぜ迷うのかと自らに訊ねながら、自分自身を鼓舞しながら、厳しい行に挑みます。
ここでも「問うこと」が大前提なのだ。古来からある行を組み合わせた「ワークショップ」には、仏祖、祖師たちの追体験をし、繋がることをまず重んじる。一般参加者には地獄道の追体験である「水断ち」「穀断ち」までは強いられないものの、行中は無言を貫く。言語による対話ができないと云う制約がある。集団的なエネルギーの中に身を置いて他者から学ぶことは多いのだが、意図的にこの制約を解放すると何が起きるのだろう?
今を暮らす ー制約と解放のコントラストー
鎌倉円覚寺に居士林という座禅道場がある。ここで宿泊座禅会(旧 学生座禅会)が年に数回行われる。 2泊3日の行程で、夜は9時10時まで、朝は4時半から坐禅。その間、参加者は食事を含めて無言である。ただし、2日目の午前はおむすびを握って近くの山にハイキング。午後は「傾聴の時間」と称して4人1組で対話する。この間は積極的に意思疎通してよい。16 時の夕食の後は、再び無言行に戻り坐禅三昧。脚の痛みや疲れがピークになる。翌日午前、最後の片付け作業に入ると 一転「ここからは皆さん意思疎通を図りながら進めてください」と指示がはいる。一瞬「えっ?いいの??」と思ったが、道場に解放されたような空気が流れ、全員が一体感の中、張り切って作業を進める。学生も小うるさそうな年寄りも1つになる。僕は毎回この時間が1番楽しいと感じてしまう。やがて修了式を迎え、ここで初めて自己紹介と一言コメントでチェックアウトする。最後に修行僧たちと般若心経をアップテンポで唱え、感動のうちに散会を迎える。
居士林主事である内田一道和尚によると「自分と向き合う時間と、コミニュケーションをとる時間にメリハリをつける方向へ向かう」そうだ。大本山の伝統的な坐禅会が新しいワークショップとしてデザインされてゆく。
ティックナットハン師のプラムビレッジ僧侶団のリトリートでも、聖なる沈黙ノーブルサイレンスを取り入れることで先駆けていると思うが、文献やレポートが多くあるでここでは触れない。
未来を観に行くー制約を可能性にまで昇華するー
この夏は、ダイアログ・イン・ザ・ダーク、ダイアログ・イン・サイレンス、ダイアログ・ウィズ・タイムという3つの対話の場を僅か1週間のうちに体験する幸運に恵まれた。
ダイアログ・イン・ザ・ダークは日本で開催されて早20年、すでに体験された方も述べ22万人という。暗闇に入ると「人は変われる」と聞いていた。
実際入ってみると、聞きしに勝る真っ暗闇だった。視覚障害者のアテンド(ファシリテーター)の声と白杖に導かれるとはいえ、どのくらいのスペースがあって、どの辺にいるのか見当が付かず怖さが拭えない。もはや「自分が今ここにいる」ということだけが頼りである。これまで「今ここに戻りなさい」と多くのワークショップで言われてきたが、初めて「いまここ」に投げ出された気分になった。
暗闇の中では、聴覚、特に人の声質の聴き分け、触覚、肌の温もりや足の裏の感覚、さらに空間の広がりや方向感覚など、普段ならあまり意識しない感覚を研ぎ澄まさなければならない。自他の境界も輪郭がつかめない分、溶けてゆく。周りの人を信頼しなければ、そこにいられるものではないと感じた。
対照的にダイアログ・イン・サイレンスは、「音のない世界」である。小銭がなるので財布を持ち込むことも禁じられる徹底ぶりだ。ここでは言語を使わないコミニケーションに徹する!手話ができる人も手話を使わせてもらえない。表情とジェスチャーだけが唯一のコミニケーションの手段となる。導いてくれるのは、聴覚障がいのアテンド。その温かくも堂々とした存在感、極限までに豊かな表情に圧倒されながら、参加者は沈黙の世界に溶けてゆく。伝わらないもどかしさよりも、少しずつでも伝わることが「喜び」の体験に変わる。
いずれも、最後は「制約」から解放され輪になって語り合う。ダークなら灯りがともり、サイレンスなら言語のある世界と「日常」に戻ってこられる。アテンドたちにとっては、見る、聞く、高齢の制約は変わらないが、それも彼女ら彼らの「日常」だ。参加者の世界観は一連の体験によって変わったようで「言葉」が身に深く沁み入り、意味の花が咲きほころんでゆく。
未知の体験は、その人にとって「未来」である。その「未来」から見て「今」の体験をデザインしあえるのだ。さらに「過去」の意味も豊かな味わいへと変わる。それを可能にするのは「体験のデザイン次第」だ。
おわりに
2020年、東京、浜松町「ウオーターズ竹芝」に日本初のダイアログ・ミュージアム「対話の森®」が出来ようとしている。ダークも、サイレンスも、やがてはタイムも、常設され、同時に体験できるようになる。日本のワークショップ文化にとって、未知の挑戦、「未来」が拓けようとしている。
クラウドファウンディングの挑戦。たくさんの人たちが「対話とはなにか?」それぞれの情熱を込めて、新着情報欄、コメント欄に記載されている。プロジェクトの成否は、現時点で決していないものの「未来への遺産」となると確信する。
どんどはれ!!