雪のように恨は降りつみ。そして我々は(#6・了)

あのう、と私は絞り出すように言った。
どうして、殺したんですか?

Jが何のことかと言いたげに眉を寄せる。

私はおそるおそる続けた。いえ、いまの虫です。

Jは一度瞬きをして、平然と答えた。
なあんだ、ただの虫でしょう。虫を、殺してはいけませんか。

そのまっすぐな眼差しに、え、と私は一瞬、怯んでしまった。
だって、生きていました。・・・生きていましたよね、その虫。

ええ。だから、どうして虫を殺してはいけないのですか?

Jの瞳には少しの曇りもなかった。ほとんど子供のような無垢な目で、虫を殺す正当性を信じている。頬にはまだ墨色の涙の痕を残しているくせに、虫を殺すことにはひとかけらの罪悪感も感じていないのだろう。

虫だろうが、なんだろうが、生きているものをどうして殺すんですか。

だって、虫はみんな殺していますよ。実際、あなただってさっき殺したでしょう?

みんな殺しているから、いいんですか。
怯むわけにはいかないと気色ばんだ私に、Jは薄く笑った。

そんなものでしょう、世の中なんて。みんなやっているから、それだけで、人の残虐性は剥き出しになります。いつの時代も、どこの国でもね。わたしがいま殺した、この虫ですが―――わたしからすれば所詮あなただって、この虫と同一の存在でしかない。

ああ。そうでしょうね。
そう言わざるを得ない。Jの言うとおりだ。所詮私も、数いる虫の一匹に過ぎない。それは紛れもなく事実だ。

私たちは話が脱線したことについて、お互いに肩を竦めて一瞬笑いあってはみたものの、Jとあの子の話はちょうどこれでお終いだった。Jは気まずそうに言った。

わたしとあの子の今後を、あなたが最後まで知ることはないのでしょうね。あなただってそんなに長い寿命は持っていない、それこそ、ほとんど虫と同じように。ですから、あなたがそこまでわたしとあの子との関係を憂えることもないのだと思いますよ。

Jは立ち上がって、私の為に鋼鉄の扉を開けてくれた。思えば、古くて汚い殺風景な部屋だった。

ですから、あなたがもしよければ、あなたが生きているうちは、あの子のいい所、素晴らしい所だけを見ていてほしい。わたしがどうあろうと関係なしに。わたしはね、あの子の歌がことのほか好きなんですよ。わたしよりも美しくて、わたしよりも朗らかで、可愛らしくて何をしていても憎めない、あの子のことを、あなたはどうか嫌わないで・・・

***

さっきまで土砂降りだった雨足はわずかに弱まっていた。
施設の派手な玄関から外に出ようとしたとき、背後から近寄ってきた白人男性に呼び止められた。

Jのところのお嬢さん、出ていくなら今のうちだ。もうじき白い灰が降る。そうなってしまったら、ここから出られなくなってしまうよ。まあ、この施設に居続けるなら問題はないだろうけどね。

本当だろうか、と私は思う。白い灰が降るような事態に陥ったとき、この施設は本当に大丈夫なんだろうか。Jはこの施設に匿われているけれど、そこまで強靭な建物には到底思えない。

誰かに守られるだけで、自分で自分を守る力を持てないということが一体どれほど不自由なことなのか、と、Jはそう言ったが、それはまさに今のJのことを言っているのだろう。過去の不始末を拭い切れず、Jはあらゆる力を奪われた。いまここでこうして他所の施設の屋根を借りて生活していることが、何よりの証拠だ。こんなにも老朽化した、骨組みのあやしい、見えるところばかりきんぴかに飾り立てられた施設の屋根の下で。

とはいえ。
白人男性に笑顔でさよならを言いながら、私は心の隅で思う。
とはいえ、これは単なる歴史の往来にまだまだ過ぎないのだ。この先、終わりがどうなるかなんて、誰にもわからない。その時には、私の寿命などとっくに尽きているだろう。虫ほどの命しか持たない私には、彼らの物語を最後まで知ることはできない―――。

体の底を芯から冷やす雨の中へ、息を止めて私は一歩を踏み出した。



(了)

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