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「"与える"という行為の強さ」の話

エーリッヒ・フロム曰く、様々な愛の形の根底には「友愛」というものが存在し、すべての他者、つまり自分以外の「無機物の物体」も含めたあらゆる存在に対して向けられる「その人の人生をより良いものにしたい」と願う、人間のごく基本的な感情の一つである。

その友愛にまつわる能力は6歳前後、日本では小学校入学の前後に成長が始まる。

それまでは母親からの無償の愛、「母性愛」によって受動に終始していたが、子供特有の著しい成長によって直に脳の処理速度・異領域間の連絡が増え、結果として思考における主観・客観の両能力が向上する。

そして、同時に外部環境を観察した際に得られる情報を捌ける脳内リソースが増えたことによる記憶の蓄積容量増加が実現するのだ。

結果、丁度6歳前後で「社会への好奇心」と「生じ始めた孤独との闘い」という形で、子供は無意識ながら、初めて周囲から友愛の習得と周囲への実践を「能動的」に行い、受動から脱するのである。

ところで、友愛は本質的に”与える”という「能動的行為」である。

自らの所有する物に限らず「自らに息づくもの」、つまり知識や興味、理解や喜びの提供を通じて本心同士で関係を持ち、「私たちは一つだ」という共通認識を構築するための行いであり、「孤独の克服のための能動」が、与えるという行為の原動力になっている。

母性愛はその中に「与える能力を付与する力」を持たず、「無償の愛」というかけがえのない尊い特徴がある一方で、孤独から子供を守るのみである。

そこで子供は「父親の与える愛の形」を求めるのだ。

父親は、自ら子を産むことによって「超越への欲求」を満たすことができないため、「思考」や「人工物」、「法と秩序」等によって、自らを「神の被造物」に留めずに創造主になるべく人生を生きてきた。父親としてのその人は、まさに「与えること」に関して多くを知っているのだ。

そうして子供は月日を経て両親の愛のもと成長していくが、「カエルの子はカエル」という言葉が示す通り、子供は親の愛と同程度に育っていく。

母性愛が足りなければ孤独に怯える子供になり、父性愛が足りなければ世間知らずの能動・自主性に欠けた子供になり、逆に愛が多すぎると親の愛に執着する、やっぱり能動に乏しい子供になる。

はっきり言葉にされずとも周知のことではあると思うが、そこにある「適切な量の愛をもって子供を育てなければならない」という理由には、「能動的で自主性に優れた子供の育成のため」という目的があったのだ。

そうして両親の沢山の愛がバランスよく適切な量だけ与えられた子供に、いよいよ友愛に基づく「与える」という行為を行う時が訪れた。

そして、ここに私が今回論じたいことがある。

大人でも子供でも留意しているものがさっぱりいないであろう「与えるという行為」の強力な2側面についてである。ズバリ、敵ではないことを形で示す「味方であるという意思表示」と、提供・授受に基づく物質・信頼面における等価交換、すなわち「潜在的な上下関係の構築」という2側面である。

結論、どれだけ愛されていようと(”愛されていなかった”のなら尚のこと)、1回の絶大な交換、あるいは長期にわたる微細で連続的な交換によって出来合があった無意識の上下関係を、「親愛の形」として歪な関係にもかかわらず有益なものとして扱えてしまうことで、本来あるべきだった友愛を損なわせる様に向かってしまうのではないか、ということである。

無論、ビジネスにおいてはこのような「利益前提の上下関係」というのはよく見られる構図であるが、利益が介在しない「一人対一人の構図」で友愛が欠けているのが重大な問題なのである。

「THE・仕事一筋の人間」がこの典型である。

自らが属する集団、あるいは自らに何か得があるかを考える「利己主義人間」は、「穿った与えるという行為」を繰り返した為に友愛を忘れてしまう。

そして「得があるからコネクションを維持してる人達」に抱く信頼関係に忘れた友愛の分だけ価値観を与え、仕事を通じて失っていったものは「その信頼関係を築くために犠牲になったもの」として受け入れざるを得ない状況になっているのである。

挙句、仕事が定年でなくなってしまえば何も残らないのである。悲しいばかりである。

友愛の「その人の人生をより良いものにしたい」と願う気持ちは様々な愛の根底にあるものである。

故にその願望の維持・成長は直に幸福度に影響するのである。

もちろん、与えるという行為そのものは、自信の表現を通じた「自己肯定感」と、他者からの評価という「客観的な指標」の二点の獲得を通じた「健やかな精神の維持・成長」のために必要なものなので、一切を禁じることは人権の無視と同罪の行いになる。

しかし、与えるという行為の動機は、友愛に関連したあらゆる幸福の要素のためにも、必ず「見返りを求める」とか、「美徳としての犠牲」等ではなく、「その人の輝きの一部になってほしい」という、「陰のない、善的な動機」でなければならないのだ。

「与える」ということは、全ての愛の根幹にある友愛を育む手段だからこそ、そしてあまりにも簡単に動機がすり替わってしまうから、与えるという行為を通じて相手に与える「自分の意思表示」と「上下関係を植え込んでしまうかもしれない」という影響に、どうか子供だけでなく我々大人も気に留めてほしいのだ。

遅すぎることなんてないんだから。

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