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「Counseling」に見る「偏り」

「Counseling」は、水菓子みぞれ氏が制作したフリーゲームである。

「Counseling」は、10分もないプレイ時間の中で、少女と対話することでカウンセリングを進めて行くゲームだ。
対話相手である少女「紬」は、主人公である自分に対して最初はありきたりな質問を投げかけてくるが、途中から少しずつ質問の内容が変化していく。

以下、ネタバレ注意






紬は、質問の中で好きな人がいるかを聞き、その後「罪を犯すことを悪だと思うか」「犯罪者は悪人か」という問いを投げかけてくる。
全て2択で答えられる質問を投げかけ、最後には「今後あなたが誰かを傷つける可能性はありますか?」と質問する。
善を主張するままに「いいえ」と答えると、彼女は微笑んで「これからもそのまま生きてくださいね」と述べ、「人類更生カウンセリング」は終了する。

シンプルに善悪を見た場合、彼女の述べる「善」の思考に付き従うことは正しい。
人類更生として、犯罪や悪人の存在を全く持って無くしていくことは重要なのだろう。
しかし、彼女の述べる善は「完璧」である。
悪人が全くいない世の中が完全な人類更生であるとしたら、そんなものがあったら、そもそも社会というものが回転しない。
要するに、この善が実現する可能性は限りなく低い、ということだ。

とりあえず彼女のいう通り動いた一周目に「いや、流石に言いすぎだろ」と思って、二周目は最後の質問にちゃんと「はい」と答えた。
すると、彼女は「小さなことでも誰かを傷つける可能性のある人間は排除しなければ」と狼狽する。
その後、「更生できなければ私は排除されてしまうんだ」「悪人はいないと言え」と言われた後に、彼女は本当に撃ち抜かれて廃棄されてしまう。
そして、彼女を銃殺し動かせなくした男に、改めて「この世から悪を消し去ることは悪と思うか?」と聞かれる。
どの回答であっても「そうか…」とつぶやかれたあとに、ゲームは終了する。

単純な話だが、「極端な善」による社会は、もはや回転しないと思っている。
悪人が生まれる動機に、所謂「悪意」以外の意図が存在しているからだ。
悪人といえども、犯罪者といえども、確実に悪意があるわけではなく、やむを得ない理由で行為を起こしたと考えられる場合もある。
そうした部分を無視して「悪人」を一方的に排斥することは、シンプルに「押し付けられた善」であるからだ。

また、悪人が存在しない社会は「それぞれ当人から見た悪人が存在しない社会」にまで完成されていると、「対立しない社会」とも言えてしまう。
対立しない社会では、競争という概念も存在しないため、文化の停滞などを起こしてしまう。
何より、競争の不存在は階級や格差など区別化する制度の不存在も呼び、それは資本主義社会そのものを否定してしまう。
これは現代社会の構図を見たうえでは、当然受け入れられない。
そうしてみると、紬のいう悪人のいない世界は、やはり「回転しない極端な善社会」であるし、それを「更生カウンセリングによって押し付けられている」と言える。

皮肉なことに、紬も「押し付けられた善」を遂行することを「押し付けられている」。
彼女の目的はカウンセリングによって(平和的に)更生を促すことだが、失敗した場合廃棄されてしまうという、ある種「脅かされた環境」でカウンセリングをしているのだ。
紬が廃棄された後に出てきた男は、「必要悪という言葉もある」と述べたうえで、「悪人はそれでも必要か?」という。
彼には結末が分かっていたのかもしれない。

このゲームの主人公は、自分で名前を付けることができる。
おそらく「自分の名前を入れてくれ」ということなので、「自分の立場で考えて欲しい」ということだろう。
自分は悪人がいた方が良いと思うのだろうか。
悪人と社会の関係性を見る上で、一度考えてみて欲しい。

最後に余談だが、「Counseling」は「メモリーガール」の制作者でもある「乃花こより」氏の実況動画を見て知った。
プレイ時間のこともありタイトル画面を見て即プレイしたが、プレイ後にこよりさんの超絶かわいいボイスを聞きながら見ると、より良いと思います(語彙力消失)。


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