見出し画像

タイガーになれない母

子どもの教育に情熱をかけ要求も高いお母さんのことをTiger mother、又はそういう親であることをTiger parentingなどと言うそうですが、香港のインターナショナルスクール時代からのママ友や、息子と一緒にこちらへ来てから知り合う方々の中に、自嘲を込めて自らをそう呼んでみたり、或いは他者を揶揄する意味で使ったりされるケースを何度か聞きます。
日本でも教育関係ブログなどでたまに紹介されているのですが、どういうわけか日本ではきっかけとなった著書の範囲から抜け出さない「中華系教育ママ」として書かれてるに留まっているようです。
実際には言葉は既に一人歩きして、民族に限らず戦略的教育キャリア形成を邁進する母親全般へと拡大してるようですし、逆に「中国(大陸)のお母さん」はむしろこのような感じではなく、国の政策としても真逆だったりします。
なので、私としてはこの表現を知った時に「あー日本の『ギフテッド』教育界隈にもたくさんいらっしゃるあの感じネ」と思いました。息子がお世話になってるイギリスの私立校にも何人に関わらずいらっしゃる親のタイプ。
人口比的に、欧米の進学競争へ参加してくる親という視点から見れば、確かに「中華系」とされる民族に多いのかも知れませんが、内訳は大陸中国人というよりも、香港人やシンガポール人、アメリカ在住中国人、といったむしろ「移民の背景を持った」人口が占める割合という要素が、このようなイメージ付けに影響しているような気がします。
著書は著書として、私の身近な感覚としては、勉強はじめ学校生活のアクティビティが「よくお出来になる」お子さんの親であれば現地の方にも、またご主人がエクスパットの方々にも典型的です。


まいど毎度書きますが、私は実際に自分の知人・友人にこのような戦略的教育(ペアレンティング)をとられてる方も多く、またそれらの方々を人として尊敬したお付き合いをしているので、陰に隠れて揶揄するような二枚舌は持ち合わせておらず、批判的視点から話題を振られてもあまり賛同する気にはなれません。
彼らは、彼ら自身が同じように育てられて来ていたり、家族として少し重めの社会的責任を背負っていて子どもに託すべきものがあったりすること、何よりもご本人たちも頭が良い為、何であれ最高・最前を目指してしまう癖みたいなもんが有る。会社勤めされてれば会社の仕事に最善を尽くし昇進を目指す人が、たまたま我が子の教育に全振りしてしまったらどうなるか、みたいな、愛とか倫理とかとは関係無い、病(やまい)のような側面も有ります。

親がタイガーだと子にとって害が否かはケースバイケースで、言われているような「必ず子に悪い影響が出る」とか「児童虐待だ」のような決めつけは間違っていると感じます。
これはあくまでも、どんな親子ケースを見ているか、どちらを向いているのか、というところの違いであって、ここにもマジョリティを対象に言い得る物事がマイノリティに対しても適用可能とは言えない、マイノリティ郡の中でのマジョリティ効果といったデータ取りも存在する、ということ。実際私の周りにはいわゆるタイガーマザー的な方が何人もいらっしゃいますが、別段お子さんたち(やご本人)がねじ曲がって不幸になっている様子は無く、単に一般的ではないやり方を通して一般的でない結果を得てる人たちという印象を受けています。そこまでやるか?!😲みたいな人たち。そういった人たちに対して、いつか不幸になれ/なるはずとは私は思っていません。
ただご自身や、お子さんとの関係性の中でそういうやり方が合わないタイプの人たちがタイガーペアレンティングの猿真似だけしてるケースは問題が出てくることも有るだろうなと思っていて、無理があるならやめた方が幸せだと感じてます。当人にとっては大きなお世話かも知れないですけれどね。🤷🏻
お子さんがついて来れない、という現象は、お子さんをついて来るように持って行けない自分側の問題でも有ることが多く、そもそもタイガーペアレンティングが合致するマイノリティケースではないのではないでしょうか。
他に沢山やりようは有るのだから、合わないことに賭けてしまって人生の(特にお子さんの人生の)時間をを無駄にしない方が良いと思われます。

などと、書いてみてるのも・・

最近つくづく自分はタイガーになれない母だよなぁと思い知らされることが続いていて☺️
これは私の側の能力の問題なわけだから、果たしてこの子のやる気まちののんびりペアレンティングや、子の方から言われるまでお金をかけようともしない姿勢とかが、息子本人の能力発揮の機会を奪うことになってないか、こういうやり方が近い将来への戦略として合ってるんだろうか、という疑問、もっといえば正しくないことをしてるのではないか、という疑念が有ります。
マジョリティケースをどこにとるか、というのが私の環境に於いては私たちの方がマイノリティケースとなってるわけです。マジョリティが向いてる方向と違う方向を見つめつつ、マジョリティが得る結果と同じものを目指している(息子は息子なりに目指す未来のイメージを持ち始めてるようなので)ということ。

普通でないことをするのはいつでも勇気が要りますね。
正しいか正しくないかを自らの身の上や自らの子の身の上を以て人体実験する。

何となく私たちはこれで良いのではないかとあう本能に従って☺️