吃音と発達障害と高IQ

本日はこちらの過去記事から。

東洋経済オンラインさんは教育系記事や社会系記事充実してますよね。なかなか毎回必ずチェックするというわけにも行かないのですが、時々こうやって刺さる記事を見つけては同時に表示されてる関連記事や同じライターさんの記事を遡って延々と読んでしまいます。

吃音については、私自身が幼い頃にごく一過性の軽度の吃音(というか失語?)が有ったことと、父方の叔父が生涯的な吃音だったこと、また、私の息子が発話の増える幼稚園年長組から小学校の中学年くらいの数年間を通して吃音だったことから、個人的には元々大変身近な問題として認識していました。
引用記事内の筆者による記事概要にも書かれてますが、私も「厚生労働省・文部科学省両省が吃音症も発達障害の一つに位置づけている」ことを知らなかったので、目から鱗が落ちる様な取材記事でした。良かったらご一読ください。

何事も目が開かれている(そのことを意識している)人にとってはその現象はあちこちに見られる、ということがあると思うのですが、私も幼い頃から吃音の叔父を見て育ち、またその吃音の叔父の存在が有ったからこそ、私が少し吃ったり言い澱んだりを繰り返すようになって来た時に周囲が理解の元に心配をしてくれた記憶が有ったり、また自宅の書棚に有った名著「金閣寺」を読んだ時の感想や疑問、またそれを父と話し合ったこと、高校の現国の先生がやや吃り気味だった時の共感と許容、大学で大阪に出て駅の広告で「どもり、赤面症は治ります」の文字を見た時の気持ちなど、折に触れ認識してきた日々だったと思います。そんな中、我が子にも数年間にわたって吃りが見られ、出来ることなら治れば良いなとやはり思ってみたり、世の中に多数存在する吃音の仲間たちのわずか一例ではないか、と受け入れたり。
この記事を読んで全てが蘇って来ました。

吃りは精神的な問題であるとか、舌の動かし方の問題であるとか、従ってトレーニング次第で治療が可能であるとかいろいろ考え方が有るようですが、実際に文科省が発達障害の一つと位置付けているということは、症状の現れが幼い頃のみか継続的かはたまた成長してからの獲得的なものかの違いも有るとは思いますが、脳の機能が一般的な人とは少し違うということの現れなのでしょうか。
自分の狭い範囲の経験則でこう書いてしまうのは危険かも知れませんが、吃音の方は吃音以外でも少し変わったところがある、その方自身の性格や行動と併せて考えると吃音であることのみがさほど浮いていないケースが多いような気がします。そういう意味でも発達障害の一つであるという見解は非常に腑に落ちるというか、この取材記事でのケースの様な、吃音であり且つ高IQであるという現象は、十分に起こり得るだろうなと感じます。

身近な、サンプル数が片手に収まるような例ばかり書いてしまって恐縮ですが、叔父(すでに鬼籍)が発達障害であったことは、数年前に祖母から昔話として聞いて初めて知りました。私の祖母が子育てをした大昔のことなので、当時の社会認識の中で自分の子が発達障害であるから配慮をして欲しいという交渉をして学校に話をつけてきたというのは大変な話です。叔父のタイプとは違うのですが「窓際のトット」ちゃんを彷彿とさせられます。
おそらく祖父が当時地元でそれなりに高名な医師であったことや、叔父の在籍校(私の父や私自身の母校とも同じですが)が大学の教育学部附属校だったことも関係して、叔父の行動や吃音からくる無言や無反応について、躾や本人の心がけの問題ではなく、個性であるということを両親揃って学校に何度も掛け合いに出向いた結果、学校側の協力を得て両輪で対処していたという話を聞き、大変な驚きと感動を覚えました。
叔父には大変良くしてもらいましたが、離れて住んでいたため会うのは盆暮れぐらいで、子どもだった私がその「頭の良さ」を実感することは無かったのですが、東工大を出てメーカーの研究室に入っていたので一般的な意味では頭はとても良かったのではないかと思います。今回拝見した記事に高IQの当事者の方が吃音も抱えられてるケースを知り、叔父との思い出が偲ばれました。

私の息子の吃音に関しては、これも書字障害と同じく現在は解消してきています。書字障害(英語に絞る前迄は識字障害も)は広く発達障害の一つとして知られてるので、吃りもそうであったのか!という驚きの気持ち。発達の凹凸とは言いますが、凸の点に関しては集団の中では「ちょっと出来るからって特別扱いはしませんよ」という扱いになりがちなところを、凹に関しては・・同じく特別扱いをしないということだと思いますが・・許容範囲に達しないことを決して許してはもらえない厳しさ。良い方の特別扱いが無い問題は自分で解決できるけれど劣ったことを決して許容してもらえないというのは、シンプルにキツいです。それを差別と言う。🥲
息子の場合は本当にラッキーな出会いが有って、当時書字障害にフォーカスして対処して下さった中国語教育部長の先生がいらっしゃって、他の能力と比べて書字のみにここまで劣るところが発症しているのは多言語スピーカーの児童に見られる概念と言語の認識ストレスから来るものかも知れないということを言っていただいて、話し合いの末、息子の場合はアルファベット(=英語)を選びました。前後してたまたま小学校のICT教育テコ入れ期と重なっていて、パソコンを使って良くなったので鏡文字や文字が入れ替わる問題は解消されて、だから吃りとはまた別の問題だと思っていたのですが・・そう言えば吃りが解消されてきたタイミング的にもまさに同時期だったような気がします。
漢字タイプの表意文字の識字(特に書字)能力が弱いことでストレスになっていたのかも知れないし、またこの頃に発達の凸凹が全体的に解消されて来たということかも知れません。発達障害の児童が抱えている劣った能力というのは必ずしも生涯を通して劣っているというわけではなく、成長によってある程度の(社会的に許容される)レベルまで伸びることもあるし、またストレスや加齢等によって大きくなってから表面化することも有るのではないかと思います。また、周辺的な能力が劣った能力を補うことや、近しい存在から学ぶということもあると思う。ただ、程度や境遇も違う中でなかなかこうすればこうというような指針が持てるものでもなく、本人にとっては受け入れてゆくしかないまさにハンディキャップ。

今パッと見つけてそのものズバリの記事を貼れなくて申し訳ないのですが、以前バイデンさんがアメリカの大統領になられたばかりの時にご自身が吃音の問題を抱えてらっしゃったことを告白したスピーチが、一時期よくシェアされていました。生活していて感じるのは、ひょっとしたら英語という言語的な共通項があるせいなのかなとも思うのですが、イギリスでも吃りの方がけっこう頻繁に表立って話す位置についてらっしゃるということ。日本と比較して吃音者が非常に身近で社会的にも普通のことと受け入れられてる気がします。そんな中で、いつだったか国会で吃り気味だった議員さんに対して何言ってんだ!?分からないぞ!的なヤジが飛んだそうで、ヤジを飛ばした議員さんが非常に叩かれていましたが、それくらいに吃音者が表に出ることも一般的であってまた馬鹿にすることが格好悪いことであるという共通認識があるのだと、日本人の私からすると逆に感心したニュースでした。現在のイギリス首相であるボリス・ジョンソンさんもけっこう吃ってらっしゃいます。言い淀みではなく吃ってらっしゃる。イギリスの議会を聞いていると政治家で吃る方はチラホラいらっしゃいます。吃りと、早口が両立している。

吃りが発達障害の一つであるということは、いろんなことに対する答えの様な気がしました。
発達障害は、必ずしも何か一つ劣っている「代わりに」他が突出しているという神による公平性(バランス取り)みたいなものは無いのではないかと思いますが、それが脳の発達の問題である以上、全体的にそれぞれの能力が平均点に合わせて成長してゆくという方が珍しいのではないかと思う次第。
平均というのは(数値であれ感覚であれ)あとから振り返って平均的というところが出てくるものです。個体成長が平均というところを目指して成されるものではない。平均教育の弊害と概念的な問題点もそこに集約されると思いました。
吃りが発達障害であるという認識の仕方と、また吃音を抱え一方で高IQであるという人物の存在は、私にとって大変腑に落ちる話でした。

私は今でも極度のプレッシャーにさらされると一番酷かった時の吃りが戻ります。
吃音の皆さんが辛い思いをされませんように。
凹凸は、突出していようが劣っていようが、皆仲間だと思っています。