『雪血風花』のじつは史料的根拠があるエピソード

タイトルのとおり。
赤穂浪士の武林唯七を主人公とする拙著『雪血風花』には、じつは史料的根拠のあるエピソードがたくさんあります。それについて簡単に解説します。
※文末のカッコ内は出典。特に断っていないものは赤穂市史編さん室発行の『忠臣蔵』第三巻に収録されています。

50人の盗賊

浅野内匠頭が切腹した夜に50人の盗賊が浅野家上屋敷に侵入。堀部安兵衛が一喝すると逃げ散ったという(堀部安兵衛書状)

大野九郎兵衛の孫娘

大野九郎兵衛が孫娘を置いて赤穂から逃げたという噂は本当にあった。真偽は不明だが、堀部安兵衛が手記に書き残している(堀部武庸筆記)

おなつ

武林唯七の手紙には「おなつ」という女性のことが書かれている。唯七との関係は不明。手紙の文脈から妻・娘・妹など年下の親族と考えるのが自然だが、唯七は生涯独身であり、妹がいた記録もない。「成り合わせたら(=成長したら、時期が来たら)」どこかへ奉公にでも出してほしいと兄に頼んでいることから、『雪血風花』では幼い少女とした(武林唯七書状)
後年、武林唯七の娘を名乗る女性が現れたというが、赤穂義士の親戚を騙る人は当時多かったようであり、真偽は不明。
武林唯七の手紙については下記リンクを参照。

不破数右衛門との盟約

不破数右衛門と元・中小姓役の五人(武林唯七、倉橋伝助、前原伊助、杉野十平次、勝田新左衛門)は「浅草茶屋」で盟約を結んでいる(堀部武庸筆記)

父の見舞い

唯七は病身の父を見舞うため、元禄15年の初め頃に赤穂に帰省している。不破数右衛門が同行したのも史実(堀部武庸筆記)
唯七の父がいつ亡くなったのかは(おそらく)不明。

同志との喧嘩

武林唯七は京で大石内蔵助と大高源吾に暴言を吐く。大高源吾は唯七にどんな悪口を言われたかまで堀部安兵衛に手紙でチクっている。おかげで唯七の暴言は後世まで残された。
【武林唯七暴言集】
「腰抜け」「最初からお前は信用できないと思っていた」「たまに涼しい(潔い)ことを言うから信じてやっていたのに」「化けの皮が剥がれた」(堀部武庸筆記)

堀部安兵衛の手紙

本当に長い。追伸につぐ追伸。目が滑る(堀部武庸筆記)

吉良の顔

赤穂浪士唯一の生き残りである寺坂吉右衛門は、「若い者がこんなやり方で吉良の顔を見ようとしたらしい」と書き残している(寺坂信行自記)
『雪血風花』で武林唯七と不破数右衛門が取る行動は、ほぼそのままである。
映画やドラマでも同じような場面がよく描かれる。

武林唯七の長刀

唯七は「長刀」を買うために大石から一両を支給された記録がある(「預置候金銀請払帳」山本博文『忠臣蔵の決算書』より)
しかし、彼が討ち入りで使用したとされている武器は槍。
「長刀」は脇差に対しての打刀とも解釈できるが、この時代に「長刀」といえば普通は弁慶が持っているような「薙刀(なぎなた)」のこと。長刀を買うためにもらった一両はどうしたのか、という疑問を作中のエピソードに盛り込んだ。
ちなみに、唯七が使用した武器が槍であったこと、吉良を討ち取った武器は刀であったこと、討ち入り後の吉良邸に槍の穂先が落ちていたという記録があることから、唯七の討ち入り時の立ち回りを創作した。

武林唯七と毛利小平太

武林唯七と岡野金右衛門が江戸に下向する際、旅路で病気になった毛利小平太のために大石から治療費を預かっている。三人は合流してそのまま江戸に向かった(「預置候金銀請払帳」山本博文『忠臣蔵の決算書』より)
毛利小平太が脱盟する際の手紙の宛先は、大石内蔵助、堀部安兵衛、武林唯七の三名。大石はリーダー、堀部は彼が潜伏していた長屋の借り主。唯七に宛てる必要性が特に見当たらないので、個人的に親しい関係だったと思われる(毛利小平太書状)

武林唯七と間十次郎

間十次郎は討ち入り前に武林唯七の兄・渡辺半右衛門に宛てて手紙を書いている。江戸でも唯七と心安く付き合っていることや、おたがいの家族の近況などにも触れており、家族ぐるみの付き合いであったことが窺える。同じ手紙で「京島原・吉原・伏見(有名な花街)で一度ずつ遊んだので思い残すことはない」とも書いている(間重次郎書状)
吉良を発見したとき唯七と一緒に行動していたのも、もともと親しかったためと思われる。

一番破り

三村次郎左衛門は、杉野十平次とともに吉良邸の裏門を掛矢(ハンマー)で打ち破った。母親への手紙に「一番やふり」の手柄を挙げたと書いている。「一番槍」に掛けた洒落?(三村次郎左衛門書状)

太鼓の音

陣太鼓はフィクションだが、吉良左兵衛は「敵は火消しのように太鼓を打ちながら襲ってきた」と証言している。掛矢で門や戸を壊す音を誤認したものと考えられている(吉良本所屋敷検使一件・吉良左兵衛口上之趣)
なお、吉良方の生存者の複数人が、浪士の襲撃を当初は火事と誤認したと証言している(同・手負之者共口上)

吉良左兵衛

吉良上野介の孫・左兵衛は、討ち入りの際は薙刀を振るって浪士と戦った。左兵衛と立ち会ったという記録があるのは、不破数右衛門と武林唯七。
後の検分によると、左兵衛は背中と額に負傷。特に背中は重傷で、肋骨が切れていたという。

不破数右衛門の行動

裏門隊で「外ヲかため」る役だったが、堪えきれず持ち場を捨てて御殿内に斬り込んだ。吉良佐兵衛と「手利き(腕利き)」の家老と立ち合ったという。家老のことは上野介と思い込んでいた。ひるむ同志を叱咤したことも本人が書いている(不破数右衛門書状)

あたたかい

まだ遠くへは行っていない。
映画やドラマでも必ず描かれる討ち入りの名場面のひとつ。史実らしい。
(小野寺十内申上書)

武林唯七の負傷

討ち入りの際、唯七は目の上と小指に「打身」を負った。

祖父・孟二官(『孟二寛』表記もあり)

彼が中国から来た経緯は、秀吉の朝鮮出兵の捕虜説と、明清交代の動乱による亡命説がある。前者は唯七との年齢的な関係を考えるといささか苦しく(絶対にありえないわけではない)、『雪血風花』では後者を採用している。
なお、朱舜水や隠元禅師のように、明清交代の動乱期に来日した知識人はほかにもいる。
孟二官は広島の浅野本家に医官として仕えた後、赤穂浅野家に仕えた。広島と赤穂でそれぞれ妻子を持っており、広島方の家名は武林、赤穂方の家名は渡辺である。渡辺系の孫である唯七が独立の際になぜ広島方の家名と同じ武林を名乗ったのかは不明。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?