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中山太陽堂と資生堂の1920年代 Ⅲ

前回は東の資生堂について取り上げました。今回は西の中山太陽堂を見ていきます。

♣阪神・中山太陽堂

中山太陽堂については、創業者中山太一氏の卓抜した着想や遠大な構想を念頭に触れていきたいので、創業当初から振り返ることにします。

♧中山太陽堂という商号

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『百花繚乱 クラブコスメチックス百年史』より

1928年の『太陽堂月報』に中山太陽堂の由来が述べられています。「太陽は無限生命の象徴であり、その不易不断の活動は、怠慢を知らず(…)吾人が彼を謳歌し、礼賛し、信頼する所以のもの、しかしクラブ化粧品本舗「中山太陽堂」の名を樹つる所以」。創業者、中山太一氏の姓名が組み合わせられた印象に残る商号です。

♧始まりは神戸

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明治36年、神戸花隈町232番屋敷にて開業。『モダニズムを生きる女性』によると、この花隈町は、華僑の妾宅が散財する閑静な場所でしたが、やがて小料理屋ができ花街に変わっていったそうです。後年、綿密な市場調査をもとに一大広告戦略を展開した中山太陽堂にとって、男女いずれもが注目する花柳界の玄人女性を最初の顧客に考えたとしても不思議ではありません。創業時の営業品目は、洋品雑貨では、シャツ、ズボン、下着、靴下、ネクタイ、カラー、帽子、手袋、カフス、鏡、ブラシ、櫛、西洋剃刀。化粧品では、石鹸、歯磨、香水、香油、洗粉、クリーム、水白粉、チックなどを扱っていました。

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『クラブコスメチックス80年史』より

明治37年、神戸の化粧品製造者、江波戸商会製造「パンゼ水白粉」の販売権を手に入れ、関東方面へ精力的に販売を展開していきます。しかし、商品の品質に関する意見の相違がもとで袂を分かつことになりますが、この時の販売努力が自社製品を全国一手販売する基盤となっていきます。
2年後の明治39年、大阪・御堂筋(当時は淀屋橋筋)へ進出し、製造業としての準備を始めます。そして同年4月に自社製品第一号としてあの大ヒット商品「クラブ洗粉」を生み出したのです。

♧親しみやすさと明治四代覇者の一つ

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『クラブコスメチックス80年史』より

クラブといえば双美人のブランドマークが有名。当時は花柳界の女性をアイコンに使用するのが一般的でしたが、双美人は上品な貴婦人が二人並んだ点が親近感を感じさせ、大衆に受け入れられました。親しみやすさは双美人だけでなく、商品名や広告のコピーにも現れています。クラブ化粧品は洗練しすぎず、一度聞いたら忘れられないものが多くあります。独占的地位を保持し続けたクラブ洗粉が良い例でしょう。舶来石鹸の表記ではなく、旧来の洗粉を採用したことで、阪神間の女性に対し従来の安心できる素材の商品として洗粉を提供したと考えられます。馴染みある名称の方が使い方や効果が予想しやすいため、新商品でも購入しやすいと思います。更に、質が高い結果であれば尚のこと愛着が増すでしょう。
クラブ洗粉は爆発的大ヒットを記録し、洗粉において他社の追従を許さないほどの地位を築いたと言えます。『平尾賛平商店五十年史』にはその記述が見られます。

白粉界の御園(伊東胡蝶園)、歯磨界のライオン、化粧水界のレート(平尾賛平商店)、洗粉界のクラブ、是れ明治年間化粧品界の四代覇者なりき

クラブ洗粉は皇室へ納められ御用達の証である御料を賜ります。御料とは皇室に認められたブランドであり、世間からの信用も得ることができるものでした。

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