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偏差値の戦いのテーブルから降りた話

はじめに

大学受験失敗は私にとって大きな転機だった。

今通っている大学には縁あって入学することができました。しかし、当時、自分の中では全然納得のいく結果ではありませんでした。

自分の実力はこんなものじゃない。もっとやれたはずだ。と自問自答の日々が続きました。


だが、果たしてこの戦いに終わりはあったのだろうか?


もし自分が関関同立の大学に合格できたと仮定しましょう。

果たしてその大学で納得できていただろうか?

多分できていないと思います。関関同立の大学に合格していたとしたら、「早稲田・慶応にに通う学生に対してすごいな」とか、「自分より上の人だ」などと思うでしょう。


ではもし、早稲田・慶応に合格していたら?


「京大・東大の学生は天才だ」「私はあんな人になれない」

などと多くの人は思うのではないか?(私は多分こう思います)


ただ、これって結局偏差値でしか大学を見ていないのではないか?


そりゃ、勉強はできた方がいいとおもいます。数学はできる方がいいし、TOEICの点が高い方がいいに決まっている。

しかし、上記のように考えた場合、この世の中の勝利者は東大以上の大学、もしくは海外の大学出身者だけということになります。

これって結局、「いい大学=偏差値の高い学校」としか考えていないからだと思う。

よって私はこんな限られた勝者しかいない偏差値だけで判断する戦いのテーブルからおりたのです。自分が偏差値の高くない学校にいったから、こんな負け犬理論みたいなことをほざいていると思う人もいるでしょう。でもどの大学に行っていてもこの戦いについて考えていたと思います。

では、そもそも偏差値って何?

偏差値とは平均を50、標準偏差を10となるよう各データを変換し、集団内における各データの位置を表した値をいう。


簡単にいえば、偏差値とは、テストの得点などの数値が、集団の平均値からどの程度へだたっているのかを示す数値です。ということはテストができるかできないかで人を判断しているののです。それって普通に考えたらすごくおかしいことだと思いませんか?

テストが人よりできるできないのが「偏差値」というものです。「ひとより勉強ができる」というだけでその人を優劣つけることはできないと思います。

ただ、「論理的思考で物事を考えれる」とか、「頭の回転が速い」など頭のスペック面で物事を考えれるなどの差はあるかもしれません。

でも、偏差値が低くても「コミュニケーション能力」が高い人もいるでしょう。

例えば、「人を引き込む話術をもった芸人さん」と「エリート官僚」をどっちが勝ってると偏差値だけで判断できるでしょうか?

私はできないと思います

だから、人の優劣を比べる戦い=偏差値だけの争い

から降りるべきなのです。勝負ごとにこだわることは重要ですが、「人に勝ってる、負けてる」の見にくい争いをする意味がどこにあるでしょう。

大学受験まであった偏差値という指標が就活ではなくなります。(大企業だとか、名が知れているとか、給料が高いだとかは別として)偏差値に変わる自分の人生の軸という指標を見つけていく必要があります。

選考上、大学の偏差値でアシキリがある企業も存在するでしょう。しかし、社会にでたら偏差値だけで判断するステージではなくなるのかなと思います。

だから、よく「Fラン大学」だとか自分の大学や他人の大学を揶揄する人がいますが、そんな人には「どうぞどうぞFランと思っておいてください」と心の中で思って軽くあしらっておくことをおすすめします。こんな、したたかさも必要だと思います。馬鹿にするやつは馬鹿にさせとけばいい。

僕は「あなたよりもずっとコミュ力が高いんですよ」と心の中でおもって、自分の強みと考える部分を磨いて昨日の自分よりも今日の自分、今日の自分よりも明日の自分が向上するように努力すれば何も問題ないと思います。

競争すべき相手はAくんでもBさんでもなく、自分です

こう考え出したのは最近です笑。

アドラー

この本を読むようになって今回の考えに気づきました。この本はすごく自分自身をはっとさせられる本でした。

次回以降この本についても書きたいなと思っています。


終わりに

今回は自分の学歴コンプレックについて書きました。こんなちっぽけな問題に気にする時間があるなら、自分を向上させる本や、自分のためになるような本を読んだり、体を鍛え、自分を向上すべきだと思います。

他人との勝負を気にすることに時間を費やすよりも、自分にどれだけ勝てるか、魅力ある人間になれるかに時間を費やした方がよっぽど有意義な時間だと思いませんか?

偏差値だけで人を判断して優越感にひたるだけの悲しい自己満は辞めませんか?




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