人の次に来るものって?

 この記事も、愚人・小人(小人閑居して不全をなすの小人)の自分勝手な考えであり、内容についての責任は一切持たないので、戯言として扱っていただきたい。

 人が進化したら何になる?
 サルが進化して人になったから、人が進化すると何になる?
 「猿が進化しても人にはならない」などの細かいことは置いといて、言葉のあやとして、人のつぎに来るものは?

 SFや漫画では、超人類や超能力を持った「人」が題材になっているが、どうもしっくりこない。
 まあ、ニーチェの超人は(これも)横に置いといて、以前から次に来るものについて考えてきた。
 ところで、一年365日24時間考えてきたわけではないので、進捗は遅いが、一応納得できるものは「それは、今目の前にある」という答えである。

 鍵は「コミュニケーション」にあると思う。

 生命の進化は、単細胞から多細胞へと進んだ。(早速 飛躍)
 どう見ても、多細胞生物の方が有利だろう(と思う。ウィルスなどの事は、これも横に置く)

 しかし、単細胞から多細胞へ進む最大の問題は、各々の細胞が分担する生命機能をどのように割り当てるか、そして、互いと全体が必要とする作業をどのように割り当てるか、であろう。
 多細胞であっても、互いに勝手に生命機能を行っているとそれは「群体」レベルであり、肝臓や心臓や筋肉他の機能を分担することでの効率の飛躍的な向上は望めない(だろう)。

 ここで、人体(ほかの多細胞生物も)には、多岐にわたるホルモンなどの化学物質と、神経に代表される電気信号が、体の各部分や細胞間の要求や指示の伝達を行っている。

 コミュニケーションとは情報の伝達と考えれば、言葉や文字での伝達だけではなく、人体内のホルモンや神経の電気信号もその一つと考えられる。

 ここまで考えると、多細胞生物の次に来るものは、既に「人」が実現している「言葉」「文字」を、細胞間のコミュニケーションであるホルモンなどと同等に扱うものではないのだろうか。

 多細胞生物の次に来るものは、肉体間でコミュニケーションを持ち、複数の肉体で作業分担をして、複数の肉体、つまり、群れや村、国として、一人の人間では成し得ないことを可能にする「モノ」であろう。

 すでに人間は現段階で言葉や文字などを使って、個人間のコミュニケーションを行い、集団として、さらに作業効率あるいは生存確率を飛躍的に向上させている。

 生物としての「人」の次に来るものは、既に現時点で存在している集団であり、宗教団体であり、国家であり、つまり、何らかの人の集団であろう。

 つまり、「人」のつぎに来るものは、いや、既に来ているものは、今、目の前に存在している。
 さらに、文字や電子媒体での記録が生物の「記憶・遺伝子」に相当すると見なせば、既に「集団」は、記憶や遺伝子すら持っている「複数の肉体を持つ生命体」とみなせるだろう。

 ところで、多細胞生物と人との区別は、おそらく、知能であろう。

 知能とは何か?
 ここでは、生存確率を向上させうる論理的な推論機能を、仮に「知能」と位置付ける。

 で、今の人の集団は「生存確率を上げる」行動をとっているだろうか?

 あくまでも私的意見であるが(この記事全体がそうだが)、集団(や国家など)は、各集団の狭い意味での生存確率は引き上げているだろうが、その集団が依存している全体の生存確率を上げているのだろうか?(企業は国家の存続に貢献しているだろうかとも言える)

 アメリカのトランプ政権などを観察すると、寛容に見ると一つの国レベルまでの事には対応しているが、人類全体としての生存確率を引き上げているとは到底考えられない。アメリカは他の国が無ければ経済的に崩壊するだろうが、それは無視されていた。
 現時点では、人類全体の生存確率の問題は、国家や個人の集団などの低位なレベルの生存確率に大きく影響している。


 他の例としては、環境汚染が一企業の利益、つまり、生存効率・確率を向上させても、他の集団の生存効率・確率を下げ、企業を取り巻く国家レベルでは生存確率を引き下げている事例があげられる。
 その他にも、国家内の一部勢力の権力維持の行動が敗戦を招いた大日本帝国などの事例が考えられる。

 つまり、現時点では、人が作る集団は「有効な知能を」持っていない、本能に従って行動している野獣レベルに相当するものであるとしか考えられない。

 ここまで考えて、「人」の次に来るものが何であるが不明瞭ながらも分かってきた(と思う)。

 「人の次に来るもの」は、生存確率を引き上げる「分別をもった行動ができる集団」であろう、と。

 ここで、さらに飛躍する。

 原始的な国家から、効率を上げるために、封建国家が生まれ、さらに全体主義やマルクスの言う「共産主義」や「民主主義」が生まれてきた。

 すべては、集団の効率を上げるための手段・手法としての「集団の運用方式」であり、これは、生物の分類に相当する「人の集団」の分類に相当するのではないだろうか。

 ところで、民主主義においても、衆愚政治や独裁政治、官僚主義などに陥る脆弱さを持っており、それ以前に、内部集団の利益追求で国家全体が衰退する大きな可能性を含んでいる。

 そして、先進国を見ても、カリスマ的・英雄的な一個人に「指示・支配・命令」して貰いたがる、封建政治への回帰願望が各所に見られる。

 ここで、封建制の脆弱性は、権力を「有能な一個人」に集中させて、効率化(と、従うだけでよい安楽な生活)を図ろうとするところにある。
 個人は変化し、過去の英雄は今の独裁者となり、将来の無能な世襲政権へとつながり、国家としての衰退を招くものである事例に、枚挙のいとまがない。
 封建制に代表される権力の集中は、民主主義の中でもその危険性を内在させるものである。
 このような大統領や首相などの「行政府の首長」に「大きな権力集中」がある現在の民主主義制度は、崩壊の危険性を内在しているものと言える。

 一部の半島や大陸の国家からは反論があるだろうが、民主主義は「巨大な集団の運営方式」としては最先端のものであろう。
 選挙によって交代する権力者という方式は、「絶えず無血の革命を繰り返す」ことで無能な者が権力者となることを、他の方式よりも防ぎうるものであろう。

 もっとも、今の「先進国」の大半が採用している「民主主義」は、その動きの鈍さなどによる「弱さ」から守るために、十分に進歩した一次二次産業による経済的優位性が要求される。そして、そのために弱小な国家が採用するべきかについては、別途考察する必要性があるだろう。

 ここまで来て、大いに混乱しているが、まとめてみると次のようになる。

 人の次に「来ているもの」は、「言葉や文字などでコミュニケーションをとる人の集団」である。
 しかし、今の「人の集団」は知能を持っているとは考え難い。

 以上から、「人に次に来るもの」は「知能を持った集団(国家?人類?)」であり、それは、権力を集中させる中央集権的なものではない、権力分散的な、更に言うと、分散と並行を実現した運用体制を持つ集団であろうと言える。(おー。分散と並行への飛躍は、考えがホップ・ステップ・ジャンプしまくっており、この飛躍には筆者自身ですら感動を覚える)

 理論の飛躍を無視すれば、「人の次に来るもの」は「意思決定が分散・並行処理で効率的に行われる体制を持つ集団」と(強引に)まとめる。

 ここまで記して、コンピュータの発展に似ていることに気づくだろう。
 一台のコンピュータの処理能力向上での効率化から、分散処理、ひいてはネットワークで分散・並行処理をするクラウド化での、効率化と安全性の確保への変化に似ている。

 派生的に考えられることは、現在の民主主義の次に来るものは、「何らかの方式」で並行・分散での意思決定と実施が行われる政治形態であろう。

 なお、現在の民主主義では、意思決定としての立法と実行としての行政機能については大いに考慮されているが、意思決定と実行の正当性を判断する「監査機能」であるべき司法については掘り下げる度合いが全く浅いと考えられる。
 また、日本のように立法機能の大部分を行政が行っている、形骸化している立法府についても再考が必要であろう。
 これは、上記までの「人のつぎにくるものを考える」という本論からは大いに逸脱するが、筆者としては「集団の運用方式としての民主主義の課題」として、重要なものと考えるためにここに記した。
 民主主義の次に来る「分散並行の効率的な意思決定」方式の前に、「監察機能を強化し、立法機能を完全に行政と分離」した民主主義の確立が望まれていると考える。(あくまでも、個人的に、勝手に考える)

ー以上ー(派生する課題は林立しているが、それはまた別途で)

ありがとー