学童保育と役人仕事
学童保育館の貼り紙を見て、
奉仕と管理をはき違えている役人に
絶望に似た物
を感じた。
『庭でのサッカーは、
窓ガラスが割れるので
禁止します』
この貼り紙をした役人は、子供たちを守っているのではない。
自分が管理している「子供館」を守っているのである。
サッカーができない子供館に、本当に人気があるのだろうか?
備品や壁の汚ればかりを気にする役人が管理する子供館に人気があるのだろうか?
彼らの福祉の対象は『子供たち』である。
しかし、かれら役人の『奉仕の対象』は『児童館の建屋や備品』であり、ひいては修理費や補充費用が嵩むと出世に響く、人事査定に響くという『上司・人事部』である。
本来なら、サッカーができるように工夫をするべきものが、安直に『禁止します』ですまし、本来の子供への奉仕を完全に無視している。
さらに、そのための予算化の提言や作業などが、自分たちの『義務』であることなど考えることすらできていない。
公園の芝生も同じ
同じことが公園の芝生でもいえる。
市民のための公園の芝生が、いつの間にか立ち入り禁止になり、管理する役人の都合で『市民の憩いの場所』が狭くなり、制限され、遂にはカタログで見るだけのものになる。
一部の公園では、芝生の養生をしながらも開放し、憩いの場所としての本来の目的を果たそうとしている。
工夫すれば、対応策はいくらでもあるものなのだ。
しかし、給料だけが目的な怠け役人や、出世亡者が多いほど、
『禁止の貼り紙』は多くなって
ゆく。
本来の目的のために工夫する、予算編成を見直す、新規構想で予算申請するなどの、改善については考えもしない。
単純な怠け癖から、禁止するだけであり、禁止を破る子供たちをしかりつけるだけである。
もし彼らが親であれば、子供の教育には完全に失敗するだろう。
もっとも、自分の子供は別物だから、全ての役人が自分の子育てに失敗するわけではないのだが。
奉仕する役人が、上から「命令」する矛盾
過去の長期間の封建制度の名残である『お上』という言葉が、給料や出世亡者の役人には、いまだに根付いている。
この『お上』意識が、子供間のサッカー禁止から始まり、公園に至り、無思慮な都市計画の強硬の原因となり、大阪のキャリア官僚の自殺までを招く。
そして、完全なヒラメである役人は、官僚と名前を変えて政治家に忖度して、自己だけの利益にまい進する。
さらに、忖度されて特権意識を持った政治家は、奉仕すべき国民を無視して個人の狭い理念や利益に走る。
児童館の貼り紙から役人の おもてなし精神 を嘆く
このように、役人の『奉仕すべき対象』を認識していない行動は、『おもてなしのニッポン』にしてはあまりにも嘆かわしい問題である。
相手を思い行動する「おもてなし」を日本の特徴に掲げながら、実際はその精神を全く理解していない。
役人から、官僚、さらには政治家までのこのような特徴は、「いい加減な仕事でも給料がもらえて喰って行ける」ことを大きな原因にしているのかもしれなしいが、あまりにも程度の低い者が公の職務に従事しすぎている。
彼らのおもてなし対象は、上司であり、さらに上であり、政治家である。
対象が国民であるという認識は、ある者は出世欲から、ある者は怠慢から、ある者は無知さから、まったく持っていない。
持っていない不都合さにすら気付いていない。
そして、上ばかり見ている彼らをヒラメと言う。
国民の覚醒が
さらに進むことが願われる
昨今である
このような無責任さと公人や役人としての目的の取り間違いは、追求してゆくと、それを許している、国民の民度の問題になってしまうのだろう。
だが、確かに日本の意識は変わってきている。
更に覚醒が進むことが願われる。
どのように覚醒すべきなのか って?
それを明言することは、道を固定し、柔軟性を失わせ、真の自己判断能力を持つ国民への成長を妨げるものになるだろう。
真の自己判断能力を持つ国民とは?
本音を言うと「わからない」だ。
凡人は超人を定義できない という逃げ口上で、この恣意を終わる。
bye
ありがとー