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「歳寒の三友」

 貝寄風と薫風の混ざった浅春の正午。麗らかな日差しがビルに反射する渋谷の駅前。サングラス越しに網膜を焼かれるのを感じながら、乗ってきたタクシーを尻目に待ち合わせ場所をスマホで確認し、日差しを避けるヴァンパイアのようにそそくさと歩き始めた。
 信号を待つ間、旅のお供であるプラダのキャリーバッグに跨り、雑多な風景を眺める。相棒は先にホテルに送られているので、余計な気を張らなくて済む。
 信号が青に変わった。
 緑色の光を青と表すのは日本人だけなんだなと思うと同時に、日本に帰ってきたという実感も湧いてきた。文化の違いを感じる度に、音楽が世界共通であることを再認識させられる。

 待ち合わせ場所のカフェは、駅から徒歩十五分の場所にある。僕はあえて駅前でタクシーを降りた。確かにタクシーを使えば楽に移動ができるし、時間も節約できる。でも、時間を節約するということはすなわち、出会いの数を減らしてしまうことにもなる。表現者としてそれはやってはいけないことだ。だからあえて歩く時間を作ることで、体験や経験を味わうチャンスを作っている。しかも健康にもいい。時以外も金なりだ。

大通りではなく、あえて路地裏に入ってみた。出会いは大通りだけに落ちているものではない。むしろこういう地元らしさの出る、生活感溢れるようなディープなところに溢れ出てくる。少し入り組んだビル街を抜け、住宅地に迷い込む。ふと迷い込んだそこには古びたガチャガチャが数台置かれた駄菓子屋があった。こういうタイミングでしか体験できないこともある。
「あらお兄さんスラッとしてかっこいいねぇ」
日本の原風景を懐かしんでいると、奥の居間のような場所から元気な声が響く。
「あれだね、タイタニックのときのデカプリオに似てるよ」
「あんなにかっこよくないですよ」
二言三言会話をしたあと、いくつか駄菓子を購入して待ち合わせ場所に急ぐ。節約されたタクシー代で得た体験にしては値段以上の価値が得られたと思う。その実感は早歩きの速度について来れず、その場に置き去りにされてしまったようだけれど、帰りの飛行機で楽しめばいい。息切れしながらそんなふうに考えていた。

 辿り着いたカフェは、都会には似つかわしくないほど昔ながらの出で立ちが保たれていた。カランコロンとベルが不器用に鳴る。ファ……いや、ミの#か。
「あ、麗音君こっちこっち」
1番奥の席からピンと上がった手が招く。白髪頭と牛乳瓶の底のような眼鏡をかけたいつもの見慣れた顔だ。キャリーバッグを、カウンターの椅子に何回かぶつけつつ、カフェ特有のソファに腰を落ち着ける。
「遅れてすみません、ちょっと駄菓子屋があったもので…うまい棒って十円じゃなくなってたんですね」
「ああ、まだ時間になってないし大丈夫よ。海外が拠点だとそういう日常的なことで驚いちゃうよなぁ。今回はなんの用事で来日したんだっけか」
「さんま御殿に母と出演するのと……まあ色々あって、あ、えーと……アイスコーヒーで」
 注文すると同時に、お冷の水を飲み干す。そういえばチップ文化もないんだった。
 カウンター席には白いワンピースを着た女性と幼稚園児らしき子供が連れ添って座り、クリームソーダに興奮して汚れた口を紙ナプキンで拭く微笑ましい光景が繰り広げられた。
 今の僕はそれが羨ましかった。
「最近大変そうだもんな。公演も少し調子悪そうだったし……。そういえば取材での対面は三年ぶりになるね」
「高橋さんは取材以外でも会うからびっくりするほど新鮮な気持ちにならないですね。僕の演奏を聴きに来てくれるのはありがたいですけど暇なんだろうなって思ってます」
ミルクと砂糖を混ぜて木星を作り出す。グスタフ・ホルストを思い出すのは僕だけだろうか。
「相変わらずキツイな、やっぱりいばら姫の子なだけある。じゃあそろそろ時間だし早速始めちゃおうか、初出しの話があればどんどん頼むよ」
「はい、よろしくお願いします」
高橋さんの優しさの滲む顔が引き締まった。プロを感じさせられた。
「では新進気鋭のヴァイオリニストである松ヶ崎麗音さんのヴァイオリン人生が始まったきっかけを教えてください」
飛行機の中でなんとなく覗いていた過去を、再度振り返り始める。脳みそが目の前のカフェオレのように、重く、ゆっくりと回転し始める。


「麗音も私みたいに自由にしていいのよ?」
「うん!じゃあお母さんみたいにバイオリンやりたい!」
そんな会話を母の膝元でしていた。それが一番昔の出来事、思い出せる最初の記憶だ。
「僕のヴァイオリン人生が始まったのは、二十一世紀の始まりと共にでした。新しい時代の幕開けと共に、僕の人生の幕も開いたんです。まあ後付ですけどね」
「それは運命的なものを感じた?」
「いや、運命というか成り行きというか…」
 来日前。取材のためにクローゼットの奥から引っ張り出して見返したアルバムには、最初の記憶よりも前の写真があった。そこにいた僕は、母が子供時代に使っていたヴァイオリンで遊んでいた。数十年ぶりに呼吸を許されたその写真は、水を与えられた植物のように生き生きと復活した。写真の中の自分は、服にプリントされたミッキーマウスよりも笑顔だった。
「やはり母の影響は大きいと思います。あの人の子じゃなかったら音楽もやっていたかどうかは分かりません」
「お母様の松ヶ崎純子さんは家庭でどのような感じだったのでしょうか?いばら姫というあだ名が付くほど刺々しい性格は有名ですが、子供の目から見た純子さんはどんな印象だったのでしょうか?」
 母は世界的に有名なヴァイオリニストで、とにかく毒舌で有名だ。着いたあだ名が「いばら姫」「史上最もロックンロールなヴァイオリニスト」「魔女」などといった悪口にも似た通称だ。その性格がバラエティ番組との相性が良かったのか、僕が子供の頃によくテレビに出ていたことを覚えている。テレビの中の母には、紫色のトゲトゲしいフォントのテロップがよく着いていた。
 でも、僕の中の母は全く逆の印象だった。
「昔、この雑誌で企画していただいた親子対談でも話させていただきましたが、母のあれはパフォーマンスに近いものです。男には負けないぞという母なりの自己防衛の形があれです」
「お家ではあまり刺々しくなかった?」
「昔は分かりませんが、僕が生まれてからは意識的に毒を吐かずにいてくれてました。それって結構大変なことだと思うので感謝しています」
 親子対談が終わったあと、母と二人きりで食事をしたときに知ったことだった。
「麗音が生まれてからは教育上良くないと思ったし、天才気取ってた部分もあったのよね。だから意識して口の悪さを治したの。それは自分の子に降り掛かってくるだろうから」
そういえば、ヴァイオリニストになった記念に企画されたあの対談は高橋さんが考えたものだったっけ。
「ヴァイオリンを始めてからのお話をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「母が子供のときに使っていたヴァイオリンで遊んでいました。楽器として使っていたかは分かりませんが、明確に弾き始めたのは三歳頃のはずです。そこから半年か一年くらいのときにコンクールで入賞したのがきっかけでヴァイオリンの道に進もうと思いましたね。母には自由に好きなことをやっていいと言われましたけど子供が自力で賞を取る成功体験しちゃったらそりゃあヴァイオリンやるしかないだろうって(笑)」
 そこからの僕は、ヴァイオリン漬けの日々を過ごした。母の人脈でレッスンプロには事欠かず、十歳の頃には神の子とまで呼ばれるほど傑出していた。そのおかげか、メディアへの露出が増えていった。
「……なるほど。それらの積み重ねが今の麗音さんの原点なんですね」
「そうですね」
嘘だ。
「才能があったことと環境が整っていたこと、さらには楽しんでいた。これらが揃っていれば世界一になれるのも頷けますね」
「世界一だなんてとんでもない」
嘘だ。

僕が音楽を始めたのは確かに母さんが関係している。でも、原点は母さんじゃない。
三歳から小学校を卒業するまでの記憶なんて、あやふやすぎて思い出せない。
 僕の人生の始まりは、中学校に入ってからだ。
 十三歳の頃、テレビの企画でフランスのヴァイオリン職人を訪ねるという体験をさせてもらった。このときから、僕の音楽観が芽生え始めた。今まではただ楽譜に合わせて弾いていただけだったあやつり人形だった僕に、魂を与えてくれた。
  この取材で僕は多くのものを得た。フランスではヴァイオリン職人は国家資格になっていることや、f字孔の形が実は色々あるということを知った。弓に馬の毛が使われていると知ったときには、美しいと思った反面、自分はなぜこんなにもヴァイオリンの知識がないのだろうと恥ずかしさも感じた。そして、人間とはなんと勝手な生き物なのだろうと思った。
 それまでの僕は、ヴァイオリンが好きというよりも、ちやほやされることを目的として音楽をやっていた。だからヴァイオリンにある種の興味がなかったのだと思う。
 取材の後、尺の都合で馬に乗ってみるという体験をさせられた。そこで僕が感じたことは、動物は楽器であるということだ。
 馬の走る様は走り初めから終わりまでが一つの曲を奏でているようだ。羊が牧羊犬に追われる様子は行進曲のようで、大地を蹴る無数の蹄が、ドラムのように待機をふるわせ、犬の吠える声が拍を刻む。この体験から僕は牧歌的な風景や動物を愛するようになっていった。そして、音楽とはなにかというのを模索し始めることになった。

「いやー、あっという間の一時間だったよ。これなら面白い企画にできる。お節介なようだがこんなに喋っちゃってさんま御殿で話すネタはちゃんと残してあるのかい?」
「基本的に話すのは母さんですから大丈夫ですよ」
「最後に、麗音くんにとって音楽とはなんだい?」

誰にも分かりはしない。僕にだって分からない。

「僕の音楽の根底には、自然や人間への喜び。賛歌があるんだと思います」
「人間賛歌か」
「そうですね、魂の発露というか、機会が大事だと思っています。こういう取材の経験も大事だと思います。飽きてますけどね。でも何かしら役に立つ可能性もありますからたとえ採算が取れなくてもやるときはやります」
「やっぱりお母さんの口の悪さが遺伝してるんじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
 インタビューを終え、高橋さんと別れた後、僕は町という音楽の一部になった。一週間滞在するホテルのチェックインまでの時間を潰すため、街を聴く、街を奏でる。いつも暮らしているフランスとは違う音。人間の音。

僕が日本に帰ってきた理由は撮影のためだけじゃない。スランプを克服するためだ。
今の僕の演奏は音楽では無い。完璧では無い。とても人に聞かせられるようなものではなくなってしまった。十三歳頃の演奏に負けてしまっている。
 僕の原点。それは現在住んでいるフランスの原風景と、中学校での友人たちだ。住んでしまっている以上、フランスの風景は新鮮味がなく、既に自分に嫌という程染み付いている。
それなら、会うしかない。
ふと立ち寄った公園のベンチで、懐かしい名前を探して電話をかけた。


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 生徒の演奏越しに携帯のバイブレーション音を気にしつつ、指導に集中した。
 この時間でも夕焼けは輝いており、日が長くなってきたなーと思うと同時に、子供の成長速度の早さにも目を見はらされるものがあると感じる。
「だいぶ弾けるようになってきたね、もう時間だから次回に少し難易度の高い曲を弾いてみようか」
 子供の笑顔は、太陽の光よりも輝いている。
 音大に入学し、流れで楽器店でバイトを始めた私は、ひょんなことからその店で開催されているピアノ教室のアシスタントをさせてもらうことになった。音楽をやっているから楽器店って、ちょっと安直だったかなぁとときどき思う。でも私らしいなとも思う。
 生徒が全員帰り、先程まで音と笑顔に溢れていた教室が、閉じたオルゴールのように静まり返った。
 携帯を確認すると、「ヴァイオリンのっぽ」からの着信だった。
「松ちゃんだ。あいつめ、有名になった瞬間に疎遠になったクセに」
 そう言いつつも少し懐かしい気持ちでリダイヤルをする。幸い私は講師と言ってもアシスタントなので、掃除をしてから鍵をかけて帰らなくてはならない。会話を聞かれる心配もないのでそこそこワクワクしながら出るのを待つ。時折大声で歌いながら掃除をしているのは内緒だ。
「もしもし、たけのこか。久しぶりだな」
「こちら竹之内小春ですどうぞ」
「何歳だよどうぞ」
「あんたと同い年ですがなにかどうぞ」
「そんなことは分かってるよ。たけのこの癖に成長してないと思っただけだバカ」
「久しぶりなのにチョー失礼じゃん!切るよ?」
「ごめんて、久しぶりだからちょっと小っ恥ずかしいんだよ」
「あそ、で、何?有名人の大先生が街の小さな音楽教室の先生に電話をかけるなんてよっぽど困ってるのかしら」
「んー……なんつーか……会えないか?」
「宗教の勧誘はちょっと想定してなかったな」
「人をなんだと思ってんだ。そんなんじゃないって。梅原も誘って欲しいんだ。3人で会って少しセッションでもできたらいいなって」
「なんで?」
「なんでって……。音楽を楽しむのに理由がいるのか?」
「そりゃ理由なんていらないけどあんたのは純粋に楽しみたいんじゃなくて私たちと会ってなにかあるからそれを望んでるんでしょ?それってどうなの?」
「都合がいいのは分かってるけど頼むよ」
「何の理由があって私たちなのさ、あんたの練習に付き合ってくれる人なんてたくさんいるはずでしょ」
「今の僕は自分を見失ってるんだ。だから自分の原点に戻って再起を計りたいんだ」
「あんたの原点私らなの?純子さんじゃなくて?」
「母さんはきっかけに過ぎないよ。音楽を続けられたのは竹之内と梅原がいたからだ」
「ふーん。相変わらずエゴイストで凝り性で自分勝手ね」
「焼肉でも奢るからさ、頼むよ」
「そういうことじゃなくて」
「どういうことだ?」
「圭太、もう音楽やってないよ」
「え?あいつが?嘘だろ」 
「あ…」
「聞いてないぞ、なんで言わなかったんだ」
「…言ってしまったからには隠さないけど、あんたの演奏に悪影響があるかもって圭太が隠すように言ったの」
「ありえない。会わせろ、説得してやる」
「無理だと思うよ」
「いや、納得できない。あいつほど才能があるやつはいない。ましてやお互いに音楽で高いレベルまで行くのを誓ったんだ。手伝ってくれ。これは僕のためじゃなく梅のためだ」
「そうね、私も内心そう思ってた。しょうがないなぁ、焼肉のために一肌脱ぎますよ」
「お前こそ自分勝手じゃねぇか」
学生自体のノリのままで少し安心した。距離は遠くにいても、心は意外と離れはしていないようだった。
 通話が終わると共に、水筒を忘れた生徒がドアの前で室内を伺っていた。歌っていなくてよかったと心の中で松ちゃんを少し褒めてあげて、子供を見送った。
 掃除を終わらせて鍵をかけ。帰りのコンビニで肉まんを買った。蒸し器の中の彼らが、いつもより少しだけ汗を多くかいているように見えた。
春が訪れ始めているんだなぁ。

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路上でギターを弾き始めた頃とは服装や髪型も社会に染ってしまったけれど。挫折と紆余曲折の先に、何故かあいつらが立っていた。
竹之内からの連絡に気がついたのは、仕事でくたびれた電車内だった。すべてが腐っている。異臭に身を包み込まれる。そんな不自由の中にくたびれて反撃する力も残っていない俺には、たまに送られてくるあいつからの連絡が少しの癒しだった。
松ちゃんと会うかもしれない。
「分岐点だなこりゃ」
スカスカの車内で独り言を呟いてしまいヤベッと思ったけど、みんなくたびれているか寝ているかで聞いていたものはいないようだ。
そう、誰も聴いていない。
駅前でギターを弾き鳴らし、社会に元気を与えようと訴えかけた17歳の頃、あの時の自分には重みが、経験が、ありとあらゆるなにもかもが足りていなかった。
誰も立ち止まらず、誰もがうっとおしがるような目で見てきたあの毎日。
 俺は確かに自由だった。しかし、それは自由とは程遠い縛られた日々だった。
そして今、俺は社会に縛られながら、そこそこの自由を満喫していた。ギターはインテリアと化した。音楽は辞めた。金にならない夢を追いかけるのをやめて、量産品に成り下がった。
松ちゃんは特別な人間だった。
昔の俺も同じくらい天才だろうと思っていたが、思い違いも甚だしかった。動画投稿サイトに自分の曲を投稿し、勝ち誇っていたあの頃が、錆び付いたトロフィーのように心の片隅で折れ曲がっている。
あいつの名前をみるのが嫌になったのはいつからだろう。学生自体はお互いにいい影響を与えあっていたはずだった。楽しかった。
あぁ。頭が回らねぇ。
疲労の中の俺には、あまりに決断するハードルが高いことではあった。なにせ俺は音楽で食えておらず、あいつは音楽で食えている。
どっちが上かは一目瞭然だ。
 あいつが木になっている若々しい果実であるとするなら、俺は既に地に落ちて腐り始めた果実にすぎない。ピークは過ぎた。というより、本来は刈り取られて養分を与えられなかったはずの果実がたまたま生き残ったというのに過ぎない。
俺は夢を見ていいほどの才能はなかった。努力もしたが、いかんせん伸びていくのは実力よりも髪の毛だけだった。
注目されない。誰にもみられない。聴かれない。認識されない。声が届かない。
心が折れるのは当然だ。ましてや俺だ。何も持たない凡夫。エリートとは違うと雑草魂を燃やしたこともあったが、いくら魂を燃やそうと雑草は雑草に過ぎないことを思い知らされた。
そして、今は名も無き歯車として、雑草魂すら燃やせず、枯れゆくのを待っている。
窓の外には横たわった漆黒が気怠げに世界を包み込んでいたが、俺の心には、目の前に写る自分は少なくともこの闇の中でさらに暗く見えた。
ああ。一曲作れそうだ。
頭の中で作曲しつつ返信をする。
タイトルは……。Dark Darker Yet Derker.
餓鬼みたいなタイトルだ。でも、案外悪くない。いつかスカウトとかされたときに披露しよう。
それならあいつと人脈を作っておくのも悪くは無いのかもな。
しょうがねぇ……。

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また少し春になった。昨日とはうってかわって雨が零れ落ち、外からは鈴のような音や馬の走るような規則的な音がセッションしていた。
「焼肉じゃないのな」
「そりゃそうよ、久しぶりに3人で会うんだからここに決まってるでしょ」
「でもサイゼって…イタリアンのいい店なら他にもあるだろうに」
「は?何言ってんのよ。サイゼは最強なのよ。あんたも3人で来てたときは崇拝してたじゃない」
「確かにいいけどさ…安すぎないか」
「もーうるさいわね、だったらあんただけ一人で焼肉でも食べに行きなさいよ」
「なんで僕が怒られてるんだよ」
「変わっちゃったね、昔はもっと謙虚だった」
「有名になると色々大変なんだよ」
「ふーん、言い訳があってよかったわね。圭太はもうすぐで着くってさ」
小エビのサラダとミラノ風ドリアを頼んだ僕、小春はピザとドリンクバー、これは昔からのお決まりメニューだ。僕たちのルーティンはサイゼで揃って色々話すことだった。忘れていた。確かに自分は変わってしまった。

そして、梅原は俺よりも変わってしまっていた。
「おう、少し太ったか?」
懐かしい声。低音の少し震え気味の声。お寺の鐘を鳴らしたような、梅原でしか聞いた事のない声。
「そう見えるならそうなのかもしれない、そっちはどうだい、元気?」
変わったなとはいえなかった。それはあまりにも触れてはいけなかった。
梅ちゃんは昔のように辛味チキンとリブステーキの肉肉しいコンボではなく、アラビアータとモッツァレラチーズを注文した。
今目の前に座っているのは本当にあの梅原圭太なのだろうか。
ギターを掻き鳴らし、がなり声でドキッとするようなことを言う。雑なように見えて音の配置は繊細だった彼は本当に今目の前にいるこの男なのだろうか。
数年ぶりに会った3人の話は、ダムの崩壊の如く、大きくうねり、そして圧倒的なパワーを持って繰り広げられた。
誰それの恋愛話や、恩師の死など、あまりに時間というものは残酷で平等かを思い知らされた。
「お前今腐ってるだろ」
学生時代の吹奏楽部と軽音部の話をしていた最中、梅原に突き刺された。この急な一言は梅原にしか言えない。そこは変わっていなかった。その突拍子のない刃物を扱うには、自分の軸がなくてはならないと思う。だからこいつは天才なのだ。
「見てわかる感じか?」
「お前にしては余裕がないと思ってな」
「バレてるか」
「音楽に見捨てられたか?」
まさにその通りと言えた。僕の方は音楽が好きなのに、音楽の方からは好かれていない。僕にははっきりと言語化できなかった。音楽に嫌われているとは思わなかった。いや、本当は気づいていたのかもしれない。でもそう思った時点で崩れてしまう。プロである以上、いくら結果がでなかろうと、続けねばならない。だから自分から音楽を愛し続けた。

「分からない…どうなんだろうな」
「俺も音楽に見捨てられてな、今ではたまに勝手に浮かんできた曲を忘れては会社でそこそこの働きをしている。松ちゃんの気持ちはよくわかる、辛いよな」
お前に何がわかる。
反射的にそう思ってしまった。そう思ってはいけないと分かりつつ、僕の脳みそは溜まっていた不満を怒りに還元し、心の中で梅原をいたぶる一言を考えようとしていた。
「ねぇ、さっきから聞いてたらあんたらバカじゃない?」
呆れた顔でチーズを口で伸ばしながらそう言った小春に、少しの怒りと笑いを覚えた。
「見捨ててんのは音楽の方じゃなくて2人とものほうだよ」
紙ナプキンで口周りのトマトソースを拭きながら、不満気な顔で話を続けられた。
「私は音楽を子供たちに教えているけど、子供たちはみんな文字通り楽しんでる。あんたたちも昔は楽しんでたはずでしょ?じゃあそれはいつからそうじゃなくなったの?理由はいろいろあると思うけど音楽の方は平等に愛を振りまいてくれてるはずよ。その愛を受け取らずに独りよがりになって勝手に苦しんでるのは誰?」
言いすぎたと思ったのか、小春は気まずさを解消するようにデザートのページを見せ、何を頼むかを聞いてきた。
「それは違うぞ」
梅原が歯を剥いた。
「音楽は自分だけが楽しいんじゃダメだ。聞いてもらえて初めて奏でる意味がある。聞いてもらえなければ人は音を楽しめないからな。一人で楽しんでるならそれは音楽を冒涜してる。個ではなく全体で楽しめなくっちゃぁダメだ。誰かに何かを伝えられてこそ奏でる意味があるんだ」

僕はどうなのだろう。
分からないからこの2人を頼った。でも、2人とも音楽に別々の信念を抱いている。つまり正解はないんだ。

「あら、音楽に集中したいからって勝手に連絡をやめたのはどこの誰だったかしら?」
「お前一人に聞かせるよりも何十人に聞かせないと意味が無いと思っただけだろうが」
「自分が楽しめないで他人を楽しませられるわけないでしょ?バカじゃないの」
「他人に想いを伝えてこそ自分も周りから影響を受けられるんだろうが、バカはそっちだ」
「自分が楽しんでこその音楽よ!」
「意味の無い演奏をする独りよがりになりたくねぇって言ってんの!」

学生時代もそうだった。この2人が喧嘩して、そしていつもこうくるのだ。

「「松ちゃんはどう思う!!!?」」
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結局、梅原を説得するようなことにはならず、セッションもすることが出来ず、学生時代のときと同じ一日を過ごすことになり、モヤモヤとしたままホテルに着いた。

人には人の音楽観がある。昔からそれは分かっていたけど、今の自分には音楽というものが何かをつかめなくなってしまった。

でも、これだけは言える気がする。
音楽に意味を求めてはいけないんだ。

鍵盤を押す、弓を引く、貼られた革を叩く、それに意味はあるのか。

音を奏でる。それ自体が意味だ。でも、それは果たして楽しむためにすることなのだろうか。

音を楽しまなくてもいい。それくらい、自由なのが音楽なのではないだろうか。

少なくとも、竹之内と梅原は音楽が好きだ。

僕は………。

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「……で!4組目のゲストが松ヶ崎親子です、よろしくお願いします」
さんまさんの紹介とともに、観客の拍手が跳ねる。
「今日は棘が生えてないんでっか」
その一言で母が毒を吐き、まいったなぁと反応をするさんまさん。
「おかんと楽屋おって血まみれにならんか?」
たじたじになりつつ、なんとか反応はする。この人は考えさせる隙を与えない。

いつも通り映像が流れる。最初のテーマは「こだわりすぎて失敗したこと」だった。

「麗音くんはなんかやらかしたことある?」
初っ端僕に来た。考える暇がない。思ったことを言うしかない。即興演奏だ。
「最近の私はちょっと不調気味でして、どう弾いていいものかわかんなくなっちゃってまして……」
「あー、完璧主義ってそうなりがちらしいな。マイクの前で挨拶ばっかり練習してる若手とかもおるくらいやからな。でもなんで悩むことがあるんや、そのまま弾いたらええやないか」
「そういうものですかね」
「その若手たちの話なんやけどな、いつまでもネタ作らんで挨拶のウケる一言だけ考えてMー1の1回戦落ちてたんやで?でもな、挨拶よりも中身が大事やん。別に挨拶なんて考えんでこんにちわーー!でええやんか。当たり前のことを考えたらつまずくに決まっとるやんか。お母さんどう思います?」
「でもさんまさん浮気とかしてないのに離婚しちゃってるじゃないですか~」
「ほんまや!」

当たり前の事を当たり前にやる…音楽にとって当たり前とはなんだろう。

次のテーマは「運が悪いと思ったら実は良かったこと」というものだった。

さんまさんは飛行機墜落事故を回避したことを話していたのが印象深かった。そういう巡り合わせというものは存在するというのを感じざるを得なかった。
「でもな、運が良かったかどうかを決めるのは自分次第やな」
今、この状態の自分を運がいいと思えるかとうか。いや、できない。今の自分にそんなことは。
「相撲の世界は勝負の世界やから運も関係すると思うんやけど桜輝親方はどう思ってるん?」
「昔ですね、ある強盗事件に巻き込まれまして僕の肩を銃弾が撃ち抜いたことがあるんですよ」
「そんなことが!不運やなぁ~」
「いや、でも頭に当たらなくてよかったと、運が良かったと思いましたね。もし私が打たれていないという未来と比較したら私は不運ということになっていたと思いますが、より最悪のケースを考えたことで運が良いと思うことができました、考え方次第ということになりますね」
「お相撲さんて大きいから的が大きくなるやんか、相撲やらない方が良かったとか思わんかった」
「全く、相撲をやってなかったら今の私はここにいませんから」

音楽がなかったら、今の自分はここにいない。確かにそれは僕にも言える。

最後のテーマは「他人に驚かれたこと」だった。

母にトークが振られ、僕が生まれてから家では毒を吐くのを止めたというエピソードを話していた。
周りから見たその人と、内側から見たその人は全く違う。視点に違いがあることは、必ず考慮しなくてはいけない。それこそ、音楽も人によって聴こえ方が違うと考える癖を付けなくては、ひとりよがりになってしまう。それは、梅原と話したことで気づいたことでもある。

僕は話すテーマがあまりなく、母さんとの絡みもできず、あまりトークが弾まなかったが、さんまさんに一言を貰った。

「常に今が一番若いんやから、後悔しないようにせなあかんで」

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「汚さないでよね」
小春のピアノ教室が終わったあと、3人で集まってのセッションができることになった。子供たちが帰ったあとだからなのか、少し教室の中は暑く感じた。
「俺のギターでお前らの音がかき消されしまわないか心配だぜ」
ファミレスで会ったあと、梅ちゃんは部屋の奥に封印されたギターを引っ張り出し、騒音による近所迷惑でめちゃくちゃ怒られたらしい。一人暮らしの部屋にギターを持って行っているということはやはり未練があったのだろう。
「世界レベルを舐めないで欲しいな」
「なんかむかつく~」
「宇宙一の俺に世界レベルが勝てるわけねぇだろ」 
ここから僕の再起が始まるのだろうか。
それは少し先の未来で、あのときが今に繋がったんだと線を引くまで分からないけど、今はただ、この瞬間を楽しみたい。
「最初の曲なににしよっか」
「俺が歌える曲がいいな」
「それならこれはどうかな」
僕は相棒を肩に乗せて、旋律を奏で始めた。

序曲・「Happy Birthday to You」


僕はこれからも自分の音楽を後悔しない。
春風がフルートを奏でた気がした。

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