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ハリー・ポッター再読した

1. はじめに

一番最初に「ハリーポッター」というものを知ったのは多分小1のとき。母の知り合いと食事をしていて、帰り道に本屋に寄り、その人が何やら分厚い本を手に取っていたのだ。多分あれは『炎のゴブレット』だったと思う。
当時映画化とかで日本でも人気に火がついていたところで、「ハリー・ポッター、知らない?」とか言われたんじゃなかろうか。身の程知らずに「私も読みたい」と言ったのだろう、過程はあまり覚えていないけど、賢者の石を読み始めたことは覚えてる。
小1から高校生になるくらいまで、約10年をかけてシリーズを完走した。最初の方のことなんて覚えているわけないし、というか文章を理解する力も漢字の知識もほぼないまま読んでいた時期が長かったから、「いつかもう一度ちゃんと読み直さないといけない」と思っていた。
そしてこの3度目の緊急事態宣言(2021年4~5月)である。楽しみにしていた予定もなくなり、GWがぽっかりと空いてしまった。なくなったものを嘆くにも、世の中への恨みを募らせるにも長い。何か他に夢中になれるものはないか……というところで、本棚で圧力を増すハリー・ポッターシリーズが目に留まった。今だ、と思って、連休に入る前から読み始めた。
最初に賢者の石を手に取ったときから20年近くがすぎた。この長編を再び読み返すことも、人生にもう一度あるかないかだろう。というわけで、2度目のハリー・ポッターの感慨をここに記すことにした。

2. 総括

本当は巻ごとの感想を記してから「おわりに」とするつもりだった。だけどシリーズ全部読んでの印象が自分の中でメインだと思うので、これを先に持ってくることとする。
20代も後半になった今ハリー・ポッターを読んで思うのは、「これは少なくとも日本では子供向けの本ではない」というこの一点に尽きる。
まず何よりも漢字や語彙が難しい。伝統ある魔法学校、現代人とは違う生活様式を守っている人々を描くのには文章にもある程度の格調を与えたいというのは分かるけど、大人にもなじみのない訳語は少なくなかった(これについては原文も少し気になる)。また、本国では子供が夢中になった、ゲームをやめて本を読むようになったと後書きで繰り返されているけど、英語では「読めない字がある」という障壁がないからだと思う。そりゃ知らない単語はあるだろうけど、日本の子供が「習っていない漢字だからそもそも読めない」というのとは性質が違うんじゃないだろうか。児童書関連の仕事をしていた人が「ハリー・ポッターは難しい字や言葉が使われているので大人向け」と言っていたのを聞いたことがある。
自室の本棚に並ぶ静山社のハリー・ポッターシリーズを見ると、最初の方の巻はカバーが破れていたりツヤがなかったりしているのに対して、最後の方は帯もふくろう通信もちゃんとついている。小学校低学年の頃など1巻を1年かけて読んでいたのだ。そりゃボロボロにもなるだろう。1冊読み終わる頃には次作の映画公開が決まっているというスケジュールだった。難しい漢字は最初だけ振り仮名があったので、部首も筆順も(なんなら意味も)分からないのになんとかメモ帳に書き写してひらがなも一緒に書いていた。そのメモは捨てちゃったな。ちょっと残念なことをした。
識字の問題のほかには、この作品で起きる事件のほとんどが差別というものに起因するということろでも、日本の子供には難しいところがあると思った。純血主義、異種族との摩擦、スクイブの出来損ない扱い……特に『死の秘宝』のマグル生まれ登録のあたりではどうしてもユダヤ人迫害を連想せずにはいられなかった。ヨーロッパあたりの作家のファンタジーにはやはりそれが反映されるし、ナチスについて学校で習うのも早いと聞くので理解も早いんだと思う。今の小学校教育では差別についても教えているのかもしれないけど、人種差別というのは世界史をある程度勉強しないとピンとこないかもと思った。
私が小さいときに分厚い本を読んでいると、家族や親戚は私が文章を全て理解できていると思って褒めてくれて私もいい気になっていたけど、その実何も頭に入っていなかったんだなと思う。今でも「あんたは道を歩いていても『あの漢字はあの本に出てきた』とか言ってたよ」と言われるけど、漢字のことしか話していない。ストーリーを親に説明するには至っていないのだ。子どもに必要なのは「もうこんなに難しい本が読めるのね」と褒めそやしてくれる大人よりも、子どものレベルと本の内容を把握して適切な本を薦めてくれる大人である。
児童文学は大人になってから読むのも楽しいけど、やっぱりそれは「子どもの時にも同じものを読んだ」という体験あってこそだと思う。子どもには「然るべき年齢で読むべき本」というものがある。分からない年齢で分からない本を読むのはどちらかというと時間の無駄なのだ。
だけど、物語の世界に没頭するという体験、本を読む習慣、読書が好きだという意識はやはりこのシリーズのおかげで私の一部になったのだと思う。こんなに自分の人格形成に影響を与えたものはない。
全7作11冊に及ぶこのシリーズ、完結した今初めて手を出そうと思ったら手ごわい相手だろう。それに、一番最初に出版されたハードカバーのもので揃えようとすると税抜き2万円はくだらない。社会人でも覚悟のいる値段だ。これが自分にとって図書館や書店にある本ではなく、自室の本棚に所有しているものであることの価値は計り知れない。分からないながらも子どもの頃からリアルタイムで親しんできたこと、親が「本は買ってあげるよ」というスタンスだったことなど色んな要因が重なって、今再読するに至ったのだ。
全巻読み終わったのは2022年1月。その間にも他の本を読んだりして随分と時間がかかってしまった。ハリーが生まれた時から、いやそれ以前の魔法界から伏線が張り巡らされていたのだなと改めて感嘆したし、やはり結末を知った上で&自分も10代を終えて改めて読むのは(この人このあと死んじゃうなとか、スネイプのこととか)また違った感じ方をした。これを子どものときに一読して終わっていた可能性があったのはとてももったいない。本当に再読してよかったと思うし、他の本も時間をおいて読んでみるのもいいな、と思えた貴重な体験だった。

3. 巻ごとの感想
というかメモ、思い出語り。「2.総括」がこの記事の全てなので、以下はおまけのようなものです。

①賢者の石(2002年初版第476刷)
小1の時に読んだのだと思う。
最初に読んだときのことで覚えているのは「ペチュニアおばさんは首が普通の人の2倍の長さある」だった。
たしか、ハリー・ポッターは最初に出てくる漢字にはルビがふってある。「普通(ふつう)」という漢字の読みはハリー・ポッターで覚えた。だけど途中で「通(つう)」という読み方を忘れて、「ふどおり? ふつうどおり?」と混乱してたのを覚えてる。
あともうひとつ感動したのが、賢者の石を探してフラッフィーの足元の扉に飛び込んだハリーが、入り口を見上げて「切手くらいの大きさ」と説明するところ、これはなぜかずっと印象に残っていた。な、なるほど~~! 距離感って文章でこうやって表現するんだ~~! と妙な感動をしたのを覚えている。それ以来、映画で該当のシーンを見ると無意識に「あれは切手サイズ」と思っていたような気がする。
ハリーは箒、ロンはチェス、ハーマイオニーは知識と、それぞれの得意分野で力を発揮して「君は本当にすごいよ!」と褒め合う素直な関係が、大人になったいまちょっと羨ましいなと思った。

②秘密の部屋(2002年初版第365刷)
小2の時に読んだ。ある朝起きたら、クリスマスでもないのに枕元にこれが置いてあった。父が買ってくれたらしい。
マンドレイクを育てる過程で、急に恥ずかしがったりにきびができたりして、「思春期を迎えた」という説明があった。マンドレイクってそういうのだっけ……?とまず思ったけど、小2の自分が思春期というものを知っていた気はしない。

③アズカバンの囚人(2002年初版206刷)
小3の時に読んだ。電車の中で広告を見て「アズカバンのよにん!」と言ったら親に「あれはしゅうじんだよ」と教えてもらった。
「箒は直らないのかね」「いいえ(直っていません)」というやりとりがあった。否定疑問文だ! 児童文学の選書とかに詳しい先生が「ハリーポッターはたまに訳もん?と思うことがある」と言っていたのはこういうのかしら。私だったら日本語の会話らしく「はい」と訳すかなぁと思いつつ読んだ。
ハリーに家族がいたことが分かったり、両親の親友が表れたりして、ハリーの世界が一気に広がる幸せが感じられる巻だった。

④炎のゴブレット(2002年初版第2刷)
このへんからわりとちゃんと記憶がある。本屋に行って発売前に予約をしていた気がする。上下巻セット売りだったのね……!?
ボーバトン(フランス)生が「あのいと(人)」「ア(ハ)リー」というのは、フランス語の語頭のhを発音しないということだったんだね。ダームストラング(ブルガリア)生は「ぼ」や「ほ」を全部「ヴぉ」に置き換えて訳されてる。「ヴぉく(僕)」とか原文でどうなってるんだろ。次にハリーポッターシリーズを読み返す機会があったら英語で読んでみたいな(読めるかな)……。
ドビーは不自然ながらちゃんとした文法で話しているけど、ウィンキーはじめほかの屋敷しもべ妖精は「あたくしは……していらっしゃいます」というしゃべり方をする。主人のことを語る三人称でしかしゃべれず、自分のことを話すのに慣れていないという描写だろう。これも英語ではどうなってるんだろう。
このへんから魔法学校生に死者が出たり、ちょっと色恋の香りがしてきたりで、アズカバンまでと雰囲気がガラッと変わる印象がある。それもあって私はアズカバンが好きなのかもしれない。

⑤ 不死鳥の騎士団(2004年初版第1刷)
なんだか「ハリーと同じ学年のときに読みたい」と考えていた気がするけど、このへんからはあまりしっかり読書をしていなかった気がする。数年空けて思い出したように読んでいたかもしれない。その前のストーリーも抜けてしまった頃にちょびちょび読んでいたんだな……。このデカい本を積読していたのだろうか。そしてこれがシリーズ通して一番分厚くて高いらしい。
不死鳥の騎士団たちの隠れ家として「グリモールドプレイス」という地名が登場する。グリモワール学園っていう魔法学校のゲームあるよね……? 『ほんものの魔法使』にもグリモワールっていう地名が出てきた気がする。どうやら「グリモワール」というのは「魔導書」という意味らしい。
この巻ではハリーが幼い頃から色々な闇の魔法に狙われていて、それから守るために大人たちが尽力していたということが明かされた。アズカバンまでが好きと言ったけど「その時から水面下でこんなに色々起こってたのか……」という衝撃もありさらにしんどくなった。

⑥謎のプリンス(2007年初版第7刷)
このあたりから本格的に死の匂いがしてくる。つらい。弟が「謎のプリン」と言っていたことを考えて気を紛らわせたい。
下巻でスラグホーン先生が、ロンの名前を全然覚えてなくて「ルパート」とか言っちゃうところがあったけど、ルパート・グリントやんけ。原作が映画に追いついたというか追いつかれたというか。
この巻でカップルが成立したり破局したりしてようやく色々落ち着く。何でこんなに恋愛にガツガツするんだろう……と思ったけど、日本と違って学内のパーティーが一大イベントで、パートナーの有無というものは深刻なのかもしれない。

⑦死の秘宝(2008年初版第1刷)
この映画を中3、高1くらいで見たし、それよりも早く読み終えた記憶はないので、ハリーと同じ学年でその巻を読むという目論見はやはりどこかで崩れていたことになる。
ドビーの死、スネイプの記憶、19年後、シリーズ通して初めて泣いたのがこの巻だったと思う。一番心情描写が痛々しかった。
ハーマイオニーの台詞で「あなたはそれでも魔法使いなの!」というのがあって、『賢者の石』であった「君はそれでも魔女か!」というロンの台詞を思い出した。
ハリーよりも年上になった今読むと、『不死鳥の騎士団』あたりでまぁ何てこの子は強情で人のアドバイスを聞かないんだろう……とむかむかしてしまうことも多かったけど、『死の秘宝』ではかなり落ち着いた印象があった。成長に合わせて作者が意図していたとしたらそのあたりもうまいなと思う。