兄と和歌

 私には教養がない。教養に結び付くような知識のかけらも、人より持っていない自覚がある。
 そう思ったのは、祖父の葬儀の日、火葬場から立ち上る煙を見て兄が言った言葉が切っ掛けだった。「野辺の煙」。たまたまその前日に、NHKオンデマンドで「鎌倉殿の13人」を見ていて、死去した頼朝を火葬するシーンを見ていたので、それを思い出した父の一言と、兄が言葉を発したときの状況でなんとなく意味は察することができたが、最初あまり意味が分からなかった。
 「あはれ君いかなる野べの煙にてむなしき空の雲となりけん〈弁乳母・新古今和歌集〉」。現代語訳すると、「わが君はどんな野辺の煙になられ、虚空に立ち昇って雲になられたのか。」といったところ(by google先生)。  
 「野辺の煙」と聞いてこの歌が出てこない、少なくともピンとこないあたり、私には教養がない。大体この歌がどんな背景で詠まれたのかはもちろん、新古今和歌集がいつの編纂で、どういう背景で編纂されたものなのか知らない。私は、こんな「無知の知」というか、「私は知らないということを知っている」みたいな、バカのソクラテスごっこは大得意だ。とはいえ、おおよそそんなことがぱっと出てくる人のほうが、現代社会人には少ないだろう。兄も「私も全然知らないけれど、全部google先生が教えてくれたから。」と、情報収集には文明の利器に頼り切りの様子だった。
 兄は続けて「昔の人ってセンスあるよね、決められた字数の中で情景を伝えられるんだから」と言った。センスがあるかどうかの判定はおよそgoogle先生にはできないことだろうと思う。「全部google先生のおかげですよ、私は何も」と兄は言うが、兄よ、その情緒を良いもの、高度なものとして受け止めることはあなたの感性によるものではないかね。少なくとも妹は何の感情も湧かなかったぞ。
 この世の中、知らないこと、知ったはずなのに忘れて思い出せないことのほうが多かろう。それまで教養とは「知識の量」と思っていたが、知識量を文明の利器で補うことができる現代で、改めて教養とは何かを考えたとき、また別のものになるのではないか。それは「与えられた情報からつながる情報をくみ取り、不足する情報を推測し、これを調べる能力」、「収集した情報全体を俯瞰してみたときに、良いものとか、興が乗るものとか、何か判断ができる能力」のことを教養というのではないかとおもう。
 でもそんなこと、頭のいいひとはとっくにわかっているし、そうやって私はまた、祖父の遺体を燃やしている火葬場でも、この文章を書いているガストでも、バカのソクラテスごっこに興じるのだ。

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