シャークネード ~鎖されし円環の物語~

シャークネード?ああチェーンソーでサメぶった切るB級パニック映画でしょ?と思っている方々は、まずシリーズ6作全てに目を通していただきたい。自ずとこのシリーズが、SF超大作であると認めることになるはずだ。そう、パニック/アクションではなくSFだ。万が一、『ディープ・ブルー』の方が100倍面白い、『ジュラシック・シャーク』よりは100倍面白い、程度の感想に留まってしまった方のために、シャークネードという映画の奥深さを紐解いていこう。

・シャークネードにおける円環構造

サメ入り竜巻としてのシャークネードは、その構造的存在も当然渦巻状で、円環の幾何学的メタファーを強く感じるものであり、かつ意義的存在としても、古来より人間とシャークネードは戦うことを宿命づけられており、同じく円環的に描かれている。この理を打ち破ることこそがシリーズ通しての主題であり、それを見事成し遂げたのが、『シャークネード』シリーズなのである。

・シェパード家の宿命 ~センタ・パラタス~

シャークネードを呼び寄せているとまで罵られる主人公、フィン・シェパードをはじめとするシェパード一族であるが、それもそのはずである。なぜ彼らが執拗に狙われるかは、作中で巧妙に示されている。とりわけ解りやすいのが彼らの名前である。

フィン(父)・・・finish,finere(すなわち「終わること」を表す

エイプリル(母)・・・april,aprilisすなわち「始まること」を表す

ギル(子)・・・gil,gisalすなわち「誓約/虜囚」を表す

このように、家族内で閉じた形状を成していることこそが、彼らが運命に立ち向かうべき存在であることをはっきりと示しているのだ。この観点から、シリーズの流れを追っていこう。

まず1作目、実は初作にして、劇としての円環構造が既に生じているのである。単品での物語としては、シャークネードを打ち倒したフィンが元妻エイプリルとよりを戻すという、一見いい加減なハッピーエンドである。しかし何を隠そう、「終わり」と「始まり」が一つになるという恐ろしき宿命は既に明らかになっていたのだ。おバカ映画の皮に我々はまんまと目を欺かれていたことになる。次作以降も登場する長男マット(当然マタイの福音から予言・運命の示唆)、長女クローディア(ローマ帝国を起源とする名はあらゆるものの固定化の暗示であろう)も含めて、戦いに勝利しているように見せかけて、実のところ理に囚われていたに過ぎないのである。1~4作目は、シェパード家を縛る宿命を描いた、壮大なる伏線だったことがお分かりいただけただろうか。

・円環の終焉そしてチェーンソー 

5作目にして、息子ギルは名実ともにシャークネードの虜囚となるも、タイムトラベルの手段を得て運命に抗う。当然ギルは円環構造に気づいており、それを打破するために一過性のタイムトラベル手段であるワームホールの概念を選んだことは、作中での「アインシュタイン-ローゼン橋」への言及からも明らかだろう。しかし、それだけでは構造の破壊には不十分であったことが、タイム・パラドックスの影響の範囲がフィンたちに及ばないことから見て取れる。そこで鍵となるのが、今シリーズのヒロイン、ノヴァである。

彼女は命を賭してシェパード家を救い、またフィンも彼女を家族として受け入れる。ここで閉じた円に楔が打ち込まれたのだ。6作目でも、彼女の(感情的)爆発により、一時困難に陥るが、今度は逆にそれが契機となって逆転を生むという、1~4作の実質と対照的な展開となるのはまさしく痛快だ。(余談ではあるが超新星爆発(supernova)では終焉と始まりの共存となってしまい、円環に逆戻りしてしまう。彼女が強がる自分(supernova)を捨て、祖父を想う本当の自分(nova)として行動したことこそが重要なのである。)

そしてクライマックス、宿命を断つただ一つの道は、エイプリルの自爆であった。最期のキスを交わし、「終わり」と「始まり」は袂を分かつ。1作目のエンドから続いた円環はついに解け、一本の線となったのだった。その線の先にあるのが、6作目のエンドとなるシャークネードが来なかった未来なのである。

これが映画史に残る傑作『シャークネード』シリーズの全貌だ。幼稚なパロディの数々も、すべては脚本によって意図されたものであることも付け加えたい。(例えば、ミッション・インポッシブルのセリフオマージュは解りやすい例で、トム・クルーズ→『オール・ユー・ニード・イズ・キル』→ループ構造の示唆、である。)そして何より、初作から一貫して、あるものがこの物語の本質を見事に象徴していたことに、皆様はお気づきだろうか。

――チェーンソー。それは鎖されし円環である。


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