男と女の間には(続編)

今から10数年前、ルイジアナ州ニューオリンズ(以下N.O.)に住んでいた時、金がなかったオレは両手が後ろに回らない程度に(?)いろんな仕事をやった。

日本食レストランの皿洗い(その後、厨房の調理人に昇格!)、ペンキ塗り、バックヤードの芝刈り(米国南部の裏庭はメチャクチャ広い!)、ストリートミュージシャンのローディ(機材の運搬とセッティング)、ボディ—ガード(N.O.は米国で最も治安が悪い!)、日本の新聞や雑誌への寄稿、そして、個人タクシー。

中でも一番印象に残っているのがタクシー稼業だ。

タクシーと言っても、友人知人をクルマでいろんな所へ送り迎えしてあげて謝礼を貰う、という得意顧客限定の送迎屋だったのだが・・・。
ちなみに当時の愛車は、メタリックモスグリーンの81年式 HONDAアコードだった(こいつで後に北米大陸を1周したのだが、そん時の話はまた次回)

当時、一番の得意客だったのが、中心街フレンチ・クォーターの古いアパートに独りで住んでいたクレアという80歳位のアメリカ人のおばあちゃんだった。
クレアは、ちょっと太っていて足が悪く、腕を支えてあげないと独りで歩けなかったが、いつ会ってもとても明るく元気で無邪気な可愛い女性だった。
オレの名前を呼ぶとき、何度ちがうと言っても「ヒデオ」と発音できず「ハイディーオー」と言っていた。

彼女からのオーダーは週1回。目的地は、ミシシッピ川を挟んだ向こう岸のウエスト・バンクという場所だ。

クレアがウエスト・バンクに通う理由、それは、彼の地にやはり独りで住んでいたラリーという恋人に会いに行くためだった。
ラリーは絵描きで、確かクレアよりもう少し歳上だったかな・・・。

毎週毎週、クレアと一緒にミシシッピ川を渡るフェリーに乗って、ラリーの家に通った。

クレアはいつも沢山の料理を作ってラリーに持っていくのが習慣だった。
というか、1週間分の食事を彼に持っていくのが向こう岸に渡る理由と言ってもよかった。

このミシシッピ川を挟んだ逢瀬はいつも約半日を要したが、毎回決まって全く同じ行動パターンが繰り替えされた。

クレアと一緒にお昼頃ラリーの家に行く。
  ↓
クレアとラリーが一頻(ひとしきり)話す。
  ↓
3人ですぐ近くの古びたバーに行く。
  ↓
既にカウンターで酔っぱらってる近所のオジサンまたはオバサンと一緒に、NFLの勝敗の話などしながらビールを飲む。自分はジンジャーエール。
  ↓
小一時間ほど飲んでラリーに別れを告げ、クレアと二人でまたミシシッピ川を渡ってフレンチ・クォーターに帰る。
  ↓
クレアのアパートでお菓子や手作りの料理をご馳走になる。
  ↓
夕方、家に帰る。

といった感じだ。

あの、昼下がりのバーでの一時はホントに楽しかった・・・。
これまでの人生の中でも3本の指に入る楽しい時間だったな。

クレアとラリーはバーマスターに毎回毎回「このジャパニーズ・ボーイは本当にいい子なんだよ」と言っていた。
「ボーイって言われても・・・、もうすぐ30なんだけど」と心の中で思ったが、
でも、当時のオレはホントに二人の孫みたいだった。

ほろ酔い気分でバーの外に出ると、いつでも日が燦々と照っていた。

ほとんど亜熱帯のN.O.の日差しはジリジリと肌を焼き、アスファルトに張りつくオレの影はそれまで眼にしたどんな影よりも濃く、まるで影自体が魂を宿しているかのような存在感があった。

あん時の光、空気、イメージは今でも鮮明に、強烈に記憶の中に刻まれている。

N.O.から帰国した何年か後、ラリーが亡くなったと人づてに聞いた。

クレアのことはすっかり忘れていたが、今回この文章を書こうと思ったとき、「そう言えばクレアは?」と思い知り合いに尋ねたら、「もう随分昔に亡くなったわよ」というメールが届いた。

クレアとラリーは今頃きっと天国で仲睦まじく話してるんだろうな。

当時、「二人は一緒に住めばいいのに、何で川を挟んで別々に暮らしているんだろう?」と不思議に思っていたが、今はなんとなく解るような気がする。

付かず離れず執着せず、でも寄り添って生き、
つかの間の出会いに喜びを感じ、サラッとした別れを迎える。
それでハッピー。

そういう生き方がやっぱ正解かも? という心境に、そろそろなってもいい頃かな?

★今日の格言: 男と女の間には、やはり川がある方が良いのだね。

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